啓蟄

この三月六日は二十四節気のうちのひとつ啓蟄にあたっていた。春の暖かさに冬ごもりしていた虫が外に這い出てくるころをいう。
 啓蟄のつちくれ躍り掃かれけり(禅寺洞)
 水あふれゐて啓蟄最上川(澄雄)
寒さに閉じこめられていた虫たちが表戸を開き、だんだんと暖かくなってきている空気に触れる。春を迎えようとしてつちくれが躍り、川水があふれる。そこに生命の輝きや生きるよろこびが感じられる。
二十四節気の折々に歳時記をのぞきながらすこしは気の利いた身辺雑記が書けたならどんなにかうれしいだろうなとあこがれ、念じてきたが花鳥風月を鑑賞する能力に乏しい無粋の身にはやはりむつかしい。いたずらに馬齢を重ねるなかにあってもすこしは人間が出来てきて(どこかから「嘘っ!」とのお言葉あり)自然に親しむようになったと思うのだが、それとこれとは別個のことがららしい。
たまたまこの日、銀座テアトルシネマでパオロとヴィットリオのタヴィアーニ兄弟監督の新作「塀の中のジュリアス・シーザー」を観た。

ローマ郊外にあるレビッビア刑務所で服役囚たちによるシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の演劇実習が行われ、カメラが舞台を創りあげてゆく過程とそこに生じる役者=囚人たちの変化を追う。テロップで名前と犯罪歴と刑期が示される。重罪犯が多く無期懲役囚も何名かいた。
ほんとうに囚人たちによるものなのか。ならばドキュメンタリーの範疇に属するがそうとは見えず、創作過程が練習風景などではなくすべて本物の舞台の所作と映る。それとも囚人に扮した役者によるものなのか。
スリリングな虚実皮膜の迷路は戸惑いをもたらしたが最後に真実の言葉を聞いたと思った。シェークスピア劇を終えた囚人たちはつぎつぎと元の部屋に収容され、なかの一人が「芸術を知ったことでこの監房は牢獄になった」とつぶやいてこの映画は終わる。
人を人とも思わないように監房を牢獄とも思わなかった男が演劇体験をとおしてこれまでとは異なる心性を見いだしたのである。啓蟄にふさわしく戸が開かれたというべきか。いずれにせよそこには悔恨、良心の呵責、自身への譴責とともにいまはかすかだけれどやがて大きくなるだろう希望がある。それは改心ではなく宗教上の回心と呼ぶべき体験だった。
亡くなって久しいが、夕焼けという字を知って夕焼けが美しく見えるようになったと語ったおばあちゃんを知っている。部落差別と貧困のため小学校にも満足に行けず、読み書きができないまま生活してきた。高齢になりようやく識字学級に通って読み書きをおぼえた。そして語られたのが夕焼けの文字と美しさをめぐる言葉だった。文字を知ったことがきっかけで美を感じる心性が自覚されたのである。
服役囚の演劇体験と非識字者の識字体験はそれまで閉じこめられていた心性が発見され、自覚された点で共通している。演劇と文字との出会いは稀におとずれる人生の啓蟄だった。