詩碑「戦死せる教え児よ」


高知市の城西公園に建つ竹本源治「戦死せる教え児よ」の詩碑。「逝いて還らぬ教え児よ/私の手は血まみれだ/君を縊ったその綱の端を/私も持っていた/しかも人の子の師の名において」は日教組運動の原点とされる。
漱石の「坊つちゃん」と同僚の山嵐が退職するきっかけとなったのは中学校と師範学校の喧嘩だった。これについて作者は「どこの県下でも犬と猿の様に仲がわるい・・・・・・丸で気風が合はない。何かあると喧嘩をする」と書いている。旧制中学という帝国大学への道に通じた主流と、師範学校という傍流との対立であり、中学校側が「何だ地方税の癖に」と師範学校生の学費が公費でまかなわれているのをヤジるところは格差の反映でもある。戦後の自民党文教族・文部省と日教組の対立の源流がここにある。
対立を続けた教育好きの政治家と政治好きの教師たち。副業に興ずるうちに「本業が下手な人の多い世間」(京極純一)の度合が増しそうなところが難儀である。