流言蜚語(関東大震災の文学誌 其ノ十二)

関東大震災では朝鮮人にまつわる噂が飛び交った。井戸に毒を入れた、放火と暴動を起こした、夜陰に乗じてガスタンクへの火付けや市ヶ谷監獄からの罪人の釈放を企てている、クーデターを起こすため海軍東京無線電信所を襲う恐れがあるといったものだ。
ほかにも西洋の某国が地震発生機なるものを発明し日本を実験台にしたという奇妙な噂が流れていたというが、差別的なまなざしと迫害の向かった先は地震発生機の西洋某国ではなく朝鮮人のほうだった。
当時松本高校の学生だった中島健蔵は神楽坂警察署の黒い板塀に、警察署の名で、目下東京市内の混乱につけこんで不逞鮮人の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから市民は厳重に警戒せよとのはり紙がしてあったのを見ている。九月二日のことだ。(『昭和時代』)

(中島健蔵
寺田寅彦の弟子で物理学者の中谷宇吉郎は「流言蜚語」という随筆に、震災から三日目の朝、駒込肴町の坂上で警視庁の騎馬巡査がやって来て、いま六郷川をはさんで日本人と朝鮮人が交戦中であるがいつあの線が破られるかもわからないから準備を願いますと大声でどなって駆けていったと書いている。
朝鮮人による暴動や井戸への毒薬の投げ入れといった噂を半信半疑としていた人たちも、警察が動き、軍隊が動くのを見て情報を信ずるほかなかった。
中島健蔵は村会の指図で、家にある唯一の武器である母親の短刀をたずさえて自警団に参加していた、ところが九月四日の朝になって鮮人の暴動は流言である、自警団は行き過ぎをやらないようにとの通知が来た。「不逞鮮人」暴動の張り紙を出した警察が、暴動は流言、噂だと言をひるがえしたのだ。しかし、それまでの殺気だった雰囲気は解消されないまましばらくはつづいた。
毒薬にせよ暴動にせよ警察が意図的に偽情報を撒いているのでなければ警察じたいが情報に踊らされていた。また軍と警察の一部は「この際」を利用して社会主義者無政府主義者、「不逞鮮人」の弾圧に動いた。
ともあれこうした流言蜚語が飛び交ったのは情報網の未整備というより皆無といってよい状態に原因のひとつがあったのはたしかだが、より重要なことがらとして国民の思考力、判断力の問題がある。
陸軍元帥上原勇作が「大勢非になると、滔々として虚弱性を発揮して恥じない」「個人性格の修練を基としないものは難局の用をなさない」と考えたのも、国民の判断力を問うものだった。
合理主義に立脚して軍の現状を考えると、難局にあるときの個人の判断力を採りあげざるをえなかったのだろう。見識ある軍人の発言であるのはたしかだが国民の思考力、判断力は政治や社会、教育のありようと相関関係にあることがらなので当時の軍隊内教育でこの資質を高めようとしても無理な話ではなかったか。

佐多稲子
中島健蔵『昭和時代』に震災時の佐多稲子の思い出が書きとめられている。騒ぎのさなか、だれかが「昨晩は朝鮮人におっかけられ通しで、逃げ歩いていたんだ」というとあるおかみさんが「そんなことあるもんか。日本の国で日本人が多いんだもの。そりやお前さん朝鮮人が追かけられている先を歩いていたんだよ」といったという。
このような庶民の良識がはたらけばあのときの雰囲気はだいぶん違ったものとなったはずだが、現実は毒薬や暴動を半信半疑とした人でさえ警察や軍隊の動きを見て噂を信ずる側についた。
突発の地震が起きるや、ただちに毒薬を用意し暴動を企てるなどいったいどうすれば出来るのか。冷静に考えればそのとおりだが、多くの者にはあとづけの理屈だった。中島健蔵佐多稲子の思い出話を「わたくしの胸をついた」と書いたのは、それほど震災の渦中で合理的判断を下すのはむつかしかったとの思いがあったからだろう。