「船頭小唄」から「東京行進曲」へ(関東大震災の文学誌 其ノ九)

〈おれは河原の枯れすすき/同じお前も枯れすすき/どうせ二人はこの世では/花の咲かない枯れすすき〉
野口雨情が作詞した「船頭小唄」の一番で(作曲は中山晋平)、関東大震災はこの歌が大流行しているさなかに起こった。そのため震災と暗い歌詞、悲しい曲調のこの歌との相関関係が云々され、なかには歌は地震を予知していたのではという説さえ流布したという。
幸田露伴によると震災のあと到るところ河原の枯れすすきとなった人が多くなるにおよんでパッタリと歌われなくなったが、思い出すと厭な感じがすると述べている。(「震は享る」)
演歌師の添田唖蝉坊は「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出されどうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」という替え歌を歌った。

震災のあと人びとはこの歌に忌まわしい予兆を感じ不吉の記号を見ていたのだった。露伴は「厭な歌詞や音楽、風俗化粧などは兎に角に無くて欲しいものであらねばならぬ」と書いている。
不吉の記号が「船頭小唄」ならば高慢増長のシンボルとされたのが花柳界や派手ななりの女で、ひところずいぶんとやり玉に挙げられた。
当時朝日新聞社論説委員だった杉村楚人冠は、一面焼け野原になった東京に貧しく素朴な生活が戻ってきた、苦しいなかにもサバサバした伸びやかな心持をいだいたと述べたうえで、対比して芸者娼妓を挙げ「あの高慢ちきな、人を人とも思わぬ、思い上がりの芸妓どもが新橋赤坂柳橋から一掃されて、いずれも人にもらった木綿の着物に身仕舞もせず、山の手にうろついているなどは、ちょっと痛快にも覚える」と書いている。(「余震」)
幸田露伴は先人の貴重な経験を無視して高慢増長し、みずからが最高絶対と信じた科学技術や知識は猛火のまえにはひとたまりもなかった、何よりも慢心は心しなければならぬと戒めたが、杉村楚人冠は下世話なところで芸妓の姿に露伴の言う高慢増長を見ていたのだった。
水上滝太郎「銀座復興」でも、「はち巻」のおかみさんの口を通して、地震まえとおなじ派手な服装で銀座を闊歩していたモボモガが喧嘩を売られたり、ハイヒールで化粧を濃くして眉を描いたハイカラ美人が紳士からいきなりつばきをひっかけられ「売女」と怒鳴られた話が語られている。
「船頭小唄」やモガや芸妓に罪などあるはずはないが、社会は大衆的正義感と嫉妬の向かう矛先を設けなくてはいられないものなのだろうか。
ところで震災からの復興事業は一九三0年(昭和五年)に区切りがついたとされて同年三月二十六日には帝都復興祭が行われた。佐藤千夜子が歌ってヒットした「東京行進曲」が発表されたのはその前年だった。作曲は「船頭小唄」とおなじ中山晋平、作詞は西條八十関東大震災とその復興を流行歌で代表させると「船頭小唄」から「東京行進曲」へとなる。そしてこの「東京行進曲」には戦前昭和の東京のシンボルがほとんどすべて出揃っていた。

銀座の柳、ジャズ、リキュル、ダンサー丸ビル、ラッシュアワー、地下鉄、シネマなどなど。
杉村楚人冠のいう「あの高慢ちきな、人を人とも思わぬ、思い上がりの芸妓ども」は「仇な年増」となっただろうが、それに代わって登場したのがリキュルを飲みジャズで踊る女給やダンサーだった。
「売女」と怒鳴られた「ハイヒールで化粧を濃くして眉を描いた凄いハイカラ」は転生して丸ビルに勤め、丸の内は仕事と恋のビル街となる。
新宿には三越小田急のデパートが建ち一躍副都心の様相を帯びた。その新宿を歌った元の歌詞には長い髪したマルクスボーイが登場していたが当局の忌避にふれたために手直ししたという。歌にうたわれるほど街にはマルクスボーイがたむろするようになった。
芸妓やモガへの反発の視線がなくなったわけではない。これはのちに「ぜいたくは敵だ」をスローガンとした国民精神総動員運動につながってゆくだろう。そのいっぽうで「東京行進曲」に見られるように震災以前に生じていたモダニズムの流れは関東大震災からの復興を機に大きくなり加速もした。二つの流れが相剋する時代がはじまっていた。