「情熱のピアニズム」

一九六二年ミシェル・ペトルチアーニはフランスのオランジュに、骨形成不全症という遺伝障碍を持って生まれた。全身の骨が折れた状態にあり幼少のころは歩くこともままならなかった。背丈は一メートルほどから伸びないまま、全身の骨が湾曲し骨折もたびだびだった。
「情熱のピアニズム」はその生涯を追ったドキュメンタリー映画。監督は「イル・ポスティーノ」のマイケル・ラドフォード
  
楽器店を営む両親と、のちにミュージシャンとなる兄弟のなかにあってミシェルが興味を示したのはピアノだった。ピアノがほしいという彼に母親がおもちゃのピアノをあたえたところすぐにたたき壊したという。まがいもののピアノと音楽ははじめから拒否した。
音楽を愛し、音楽から愛された。
八歳で初舞台を踏み十三歳でジャズピアニストとしてデビューした。力強く、粒だった音色。ペダルは特殊な踏み機を用いた。インプロビゼーションは激しさと美しさを併せ持つ。
彼の手は躰に比してずいぶんと大きい。足は小さく、二本の杖を支えにようやく歩けるほどなのに手は別で、健常者の平均より少しばかり大きいほどに見えた。その手の躍動は腕が可能にしたが、手首は骨が弱くて弾性はなく、しなうことはなかった。手首は固定された状態、つまり腕と指で鍵盤を叩くしかないのだが、その速さは凄まじい。手首を使わずドラムセットを叩いて驚くべき演奏をするといったおよそあり得ないことがピアノの演奏で行われていた。
女性を愛し、女性から愛された。
何年か前に河合香織セックスボランティア』という本が話題になった。障碍者に対して性行為に応じたり自慰行為を補助してやったりする、これまで社会の表には出なかった世界のルポルタージュだ。わたしはジャズが好きだからミシェル・ペトルチアーニは知っていたが、女性関係については知る由もなく、もしもその性生活に考え及んだとすれば、重度の障碍にセックスボランティアを連想しただろう。
しかし、じっさいにはミシェルは時に身勝手な行動を含みながら生涯に五人も六人もの女性と同棲した。そのうちの一人はミシェルの子供を産んだ。息子も父とおなじ障碍を持っている。ピアノ演奏では抱きかかえられて椅子に乗せてもらっていたが、性生活の面では介護も補助も不要だった。
そうしてさまざまな快楽を求め、そのなかにはクスリもあった。
スクリーンでは家族が、関係した女性たちが、ともにセッションしたミュージシャンたちがインタビューに応じてミシェルを語る。語り口は総じて率直である。そのあいだに、多くは残されたテレビ番組の映像だろう、ミシェルへのインタビューと演奏シーンが挿入される。こうしてミシェル・ペトルチアーニの人間像と人生の輪郭が見えてくる。
生まれたときから死と直面しなければならなかった障碍。そのなかにあって開花させた音楽。追い求めた女性そして快楽。これらの要素をいろいろと組み合わせ、考えるなかにそれぞれのミシェル・ペトルチアーニが現れる。ミシェルを理解するとはこういうことをいうのだろう。
体質上「寿命は二十歳くらいまで」といわれていた。にもかかわらず晩年には一年のうち二百日あまりにコンサートを入れていた。ここにも想像の余地がありそうだ。
ミシェル・ペトルチアーニは一九九八年にツアー先のニューヨークで急性肺炎により亡くなった。三十六歳だった。
(十月十五日、シアター・イメージフォーラム