花の力(関東大震災の文学誌 其ノ六)

関東大震災からおよそ一年、被災した岡本綺堂は、仮住まいの生活をつづけていた。住みなれた自宅での生活とは気分や感情の落ち着きやゆとりの面でだいぶん落差があったのだろう、花を活けて眺めようという気は起こらなかった。
ところがある日、綺堂は古道具屋の店先に徳利のような花瓶を見てそれを買い込んだ。すると花を活けてみたくなり二三日してぬかるみの道を近所の麻布十番へ出かけ梅の枝と寒菊の花を買って帰った。十二月も二十日を過ぎてのことだった。(「十番雑記)

花々とはかかわりのない被災生活だった。わずかに、この年、天長節の祝日に町内の青年団から避難者へ戸ごとに菊の花のプレゼントがあった。
ちなみに大正天皇の誕生日は八月三十一日だが、これに付随する天長節祝日は十月三十一日だった。盛暑期であるため各種式典に困難をきたす恐れがあるとしてとられた措置であり、酷暑の候に宮中で衣冠束帯威儀を正して儀式をおこなうのは負担が大きく、くわえて児童生徒への配慮もあったようだ。八月三十一日は学校が夏休みで行事をやりにくい。多くの児童生徒たちにとっては夏休みの最後の日でもある。といったことから天長節祝日は臨機応変にふた月延ばすに如くはないと判断したのだろう。なかなか粋で柔軟なはからいだった。戦前の日本はコチコチの典型のようなイメージもあるが、こんな柔軟な一面もあった。閑話休題
ともあれ天長節の祝日に綺堂は青年団から菊の花を贈られた。もっともそのときは厚意に感謝しながらも花束のまま庭土に挿しておいただけだった。それがどういう気まぐれか歳末ちかくなり一輪挿しの花瓶を買うに及んだのだった。
綺堂は花瓶を買ったいきさつを「どういう気まぐれか」と書いているけれど意識する以上にその前の青年団からの菊の花のプレゼントが大きかったような気がする。逆境にある身にやさしくはたらきかけてくる花をだんだんと意識したのではないか。花には人を慰め励ます力がある。綺堂のなかにもすこしは気分的なゆとりが生まれていたのだろう。
花瓶を買ったのをきっかけに綺堂は麻布十番に花を買いに行く。震災で道普請は後回しにされている。見渡すかぎり一面ぬかるみの泥濘を踏み、混雑を冒してようやく花をもとめた。こうして梅の枝と寒菊の花は花瓶に活けられた。
田山花袋は震災直後の惨状を記したルポルタージュ『東京震災記』で不忍池の蓮の花に触れている。あの騒ぎではとてもあの花を見ている者などいなかっただろう、そんなのんきなことなど口にすれば文学者なんかいい気なものだと言われかねない、花の美しさに気づいた人がいても口にするのははばかられたと承知しながらも花袋は震災があっったために花の美しさが際だって見えたと書いている。
〈私に取っては、一方にそうしたすさまじい災害があったために、あたりが全くわびしい焦土となってしまったために、一層その花が、その色彩が、際立って見られるのであった。私は何とも言われない気がした。じっと見ていると、涙が私の眼に滲み出して来た。〉

震災のあとで被災者が精神の健康を保つのは相当の難事である。阪神淡路大震災のときも精神医療関係者は被災者の心のケアやカウンセリングに追われた。当の医師や看護婦にも被災した人が多くいる。中井久夫編著『1995年1月・神戸』(みすず書房)にはそのときの精神医療関係者の活動が詳しく述べられている。
東京では作家で精神科医加賀乙彦氏が神戸にボランティア活動に赴く準備をしていた。加賀氏に中井氏から、できるだけたくさんの生花を持ってきてほしいとの依頼が届いた。出発の日の早朝、加賀氏宅に新鮮な、黄色いチューリップを中心とするたくさんの花々が届けられ、それらはやがて中井氏の診察する神戸大学の十九箇所のナースステーション前に漏れなく配られて、患者さん、看護婦さんからたいへんに好評を得たという。福井県精神科医も大量の水仙の花をかついでやってきて喜ばれた。
皇后陛下は皇居の水仙を菅原市場跡に供えて黙祷された。
『1995年1月・神戸』所収の「災害がほんとうに襲った時」には、日本の政治家で皇居の水仙にまさる心のこもった態度を示せた人はいなかった、そして「暖房のない病棟を物理的にあたためることは誰にもできない相談である。花は心理的にあたためる工夫のひとつであった」とある。
繰り返しになるが綺堂が花瓶に梅の枝と寒菊の花を挿したのは震災の年の暮れもだいぶん押し詰まった一日、「底冷えのする宵」だった。花瓶に挿された花は綺堂の心をあたたかくしたにちがいない。