「最強のふたり」

パリの富豪で、事故により首から下が麻痺してまったく自由が利かないフィリップ(フランソワ・クリュゼ)が介護役としてスラム育ちのアフリカ系兄ちゃんのドリス(オマール・シー)を雇う。ほかに介護や福祉の専門家や経験者が応募してきているのに富豪はなぜかずぶの素人を採用したのだった。
もともとドリスに採用への期待はなく、介護職に応募したのは求職活動の証明がないと失業給付が受けられなくなるためで、不採用証明書を得ると求職活動が証明される、つまり給付金を得るためのアリバイづくりである。ところが意外にも採用されて車椅子の富豪を介護することになる。

上流階級で重度の障碍を持つフィリップと社会の最下層にいる健常者ドリス。クラシックとソウル、高級スーツとスウェット、文学的な会話と下ネタ・・・・・・生育歴や教養趣味ではまったく異なる二人だが、障碍があるからとか貧困だからといった同情や偽善はまっぴらだという思いでは共通していた。
おのずとふたりの関係は同情や偽善を排したものとなる。だけどそうした関係は言葉としては美しいが、一面では曖昧な状態を放置しないとか、はっきりした態度表明といった意味を含むから、関係の持続という点では危険な要素でもある。ドリスはフィリップに排便の世話などとんでもない、絶対にやらないと訴える。こうして二人の関係は表面的なきれいごとではない。フィリップはいったんはドリスの主張を受け入れ、排便を看護師に任せるが、そうしているうちにドリスの態度が変わる。フィリップもドリスからいろんな刺激を受ける。二人の関係はたがいを変えてゆく。
ここでフィリップとドリスの関係を考えるための補助線として一九二二年(大正十年)三月三日京都市の岡崎公会堂で行われた全国水平社結成大会での宣言を用いてみたい。宣言は、明治このかた被差別部落の問題を解消しようとしたもろもろの施策や運動がじつは「人間をいたわるかの如き運動」であり「かえって多くの兄弟を堕落させた」と述べて「いたわる」と「いたわるかの如き」とは似て非なるものではないかとの問題を問うている。
ドリスの経歴を調べ、宝石強盗で半年間服役した前歴があるとフィリップに報告した親戚がいた。それに対しフィリップは「彼は私に同情していない。そこがいい。彼の素性や過去など、いまの私にはどうでもいいことだ」と答える。
障碍を持つ者への教科書通りの対応や腫れ物に触れるような接し方。心配という名目による介護者の前歴調べ。それらはフィリップの眼に「いたわるかの如き」ものとしか映らなかった。
しばしば行政機関や第三セクターが資金を出して同和問題障碍者問題をテーマとする啓発映画が製作される。わたしも同和問題の啓発映画にかかわった経験があるので申しにくいのだが、行政がいろいろな関係者、関係機関に気を遣い左顧右眄しながら出来上がった作品はさしさわりのないところをかいつまんで教えましょうというところに落ち着きやすく、問題提起やそれを承けてともに考えようというふうにはなりにくい。
それらと対比していえば「最強のふたり」はすぐれたドラマであるとともにとてもよく出来た福祉、介護についての啓発映画である。エリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュという二人の共同脚本、共同監督による本作は結果的にまことに優れた啓発映画となった。
啓発映画といえば当たり障りのない、刺激性に乏しい印象は避けられないけれど、なかなかどうしてここにもピンからキリまであるということだ。
(九月七日TOHOシネマズシャンテ)