綺堂の見た震災一年後 (関東大震災の文学誌 其ノ四)

関東大震災で麹町元園町の自宅を焼け出された岡本綺堂と家族、女中はその日は紀尾井町の小林蹴月方に避難し、翌日高田町の額田六福方に移った。小林、額田ともに作家で、前者とは親類、後者は綺堂の高弟にあたる。
綺堂の一家は同年十月に麻布区宮村町に転居したが、ここも震災のため大破していて雨露をしのぐさえままならず、翌一九二四年(大正十三年)三月大久保百人町に移った。当時の大久保は東京市外であり綺堂にとって「生まれて初めての郊外生活」だった。ようやく綺堂が半蔵門外、麹町に戻ったのは翌大正十四年六月、五十四歳のときだった。旧宅地に戻ろうにも区画整理の都合があり思うにまかせなかったのである。

そのかん綺堂は震災から一年経った九月四日に元園町を訪れており、そのときの見聞と感懐が『岡本綺堂随筆集』所収の「九月四日」に述べられている。
その日、綺堂は他の用を兼ねて麹町を訪れ旧宅地に立った。電車通りはもとの商店の多くがバラックを建てて営業を再開していた。住宅地は区画整理の問題があり茫々たる草原となっていたが、そんなことよりも一年のあいだに近所の顔見知りがけっこう多く亡くなっていることに驚かされた。震災当時、麹町にはほとんど数えるほどの死傷者さえなかったのに、それからのちつぎつぎと倒れていたのだった。震災とは関係なく寿命だったのかもしれない。しかしこれほどまでに死者がつづいたのは震災と関係していると思われてならなかった。そして綺堂は死因に着目する。
〈その死因は脳充血とか心臓破裂とか急性腎臓炎とか大腸加答児とかいうような、急性の病気が多かったらしい。それには罹災後のよんどころない不摂生もあろう。罹災後の重なる心労もあろう。罹災者はいずれもその肉体上に、精神上に、多少の打撃を蒙らない者はない。その打撃の強かったもの、あるいはその打撃に堪え得られなかった者は、更に不幸の運命に導かれて行ったのではあるまいか。死んだ人々のうちに婦人の多いということも、注意に価すると思われた。〉
統計的にはどうか知らないがこれが綺堂の見た実態だった。
今回わたしが参考にした関東大震災についての専著は大曲駒村『東京灰燼記』と田山花袋『東京震災記』の二冊で、前者は震災の年一九二三年(大正十二年)十月東北印刷株式会社出版部、後者は翌二四年四月博聞館からそれぞれ刊行されており、いずれも震災とその直後の状況についての貴重な歴史の証言である。ならば震災一年後の状況について語った著作はないものかとあたってみたが管見する限りでは見あたらなかった。その点で綺堂の随筆は自宅の麹町という定点に限られたものだが、震災一年後の状況を見つめた価値ある資料となっている。

寺田寅彦は震災後の十一月三日に在欧州の小宮豊隆あて手紙に「地震の災害も一年たヽない内に大抵の人間はもう忘れてしまつて此の高価なレッスンも何にもならない事になる事は殆んど見えすいて居ると僕は考へて居ます」と述べている。おなじく「石油ランプ」と題した随筆に「たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電流や瓦斯の供給が絶たれて狼狽する事はあっても、しばらくすれば忘れてしまう。そうしてもっと甚だしい、もっと永続きのする断水や停電の可能性がいつでも目前にある事は考えない」と書いている。
人はそれほど忘れやすく、たまに停電や断水で痛い目を体験してもすぐに忘れて電気、水道に過度なくらいに信頼を置く。いくら精密な器械であってもいつ故障が起きるかわからないのに。だから何度おなじような災害に遭ってもそのときの反省や教訓は後代に活かされにくい。関東大震災でさえ多くの人が一年経たないうちに忘れてしまうのだとすれば「今後何十年か百何年の後に、すつかりもう人が忘れた頃に大地震が来て又同じやうな事を繰返すに違いない」と寅彦は思わざるをえない。(小宮豊隆あて同書簡)
そうしたなかで綺堂はおなじ町内の人たちの一年後の罹災の状況を書きとめた。そして地震の直撃を受け、また火に焚かれた者は悲惨の極みであるが、一度は危機を脱しながらその後、精神に肉体に辛苦を嘗めて結局は死の手を免れ得なかった者も同様で、前者と後者とのあいだに著しい相違はない、畳の上で死ねたかどうかなど些細な問題に過ぎないと考えた。
ここから話題を阪神淡路大震災東日本大震災に及ばさずとも言外に思いは読み取っていただけるだろう。しかしそれでも書いておきたい。復旧の遅れは被災者がつぎつぎと倒れてしまう状態を放置することにほかならない。