安政の江戸地震と関東大震災(関東大震災の文学誌 其ノ二)

安政の三大地震」は一八五四年(安政元年)十一月四日に起きた東海地震、おなじく五日の南海地震、そして翌安政二年十月二日の江戸地震をいう。東海と南海地震につづく十一月七日には豊予海峡震源とする安政豊予地震も起きている。マグニチュードの大きさでは東海と南海地震が8.4、豊予地震が7.3〜7.5、江戸地震が7.0〜7.1とされている。げんみつには安政改元されたのは嘉永七年十一月二十七日だから東海、南海、豊予地震嘉永年間に起きているけれど、ここでは広く行われている呼称通りとした。
関東大震災は一九二三年(大正十二年)九月一日だから安政地震とのあいだはおよそ七十年、ということは関東大震災当時、安政地震を経験した人はそれなりの数いたわけだ。そのかんには一八九四年(明治二十七年)六月二十日の強震などもあった。
関東大震災の前年七十七歳で亡くなった岡本綺堂の母は十歳の年に日本橋安政の江戸地震に遭い、後年までそのときの衝撃とおそろしい体験をしばしば綺堂に語ったという。おなじく寺田寅彦も母親から安政の南海地震の土佐での体験を何度となく聞いている。安政地震の記憶は繰り返し子供たちに語り聞かせるほどに強烈だった。
大都市江戸に甚大な被害をもたらした安政の江戸地震で思いあわされる地に三ノ輪の浄閑寺がある。地震で無縁仏となった吉原のお女郎さんの遺体が投げ込まれたため「投げ込み寺」の異称がある。一九六三年(昭和三十八年)に彼女たちをまつる石碑「新吉原総霊塔」が建立され、そこには「生まれては苦界、死しては浄閑寺」との花酔の句が刻まれている。

堀に囲まれた吉原遊廓の唯一の出入口は大門で、多数の遊女と客がそこに殺到した。一箇所の出口では脱出はままならず多数が焼死あるいは火焔を避けて堀に飛び込んで溺死した。死体は埋葬するいとまもなく投げ込み寺送りとなったというのが吉原における安政の江戸地震だった。
関東大震災の年の十月に刊行された大曲駒村『東京灰燼記』(中公文庫)は吉原遊廓内の犠牲者を二千人としたうえで「吉原遊廓内の死体の大部分は、苦界の遊女であると言う。いわゆる籠の鳥は、籠の中から逃げ出しもならず、生きながら地獄の火に焼かれたのであろう」としるしている。
おなじく同書には「浅草方面も被害甚だしく、吉原遊廓、吾妻橋下には、今猶死体累々たる有様で、人夫はその取片付けに忙殺されて居る」との新聞記事が引用されている。
安政の大地震でも関東大震災でも「籠の鳥」の多くは大門という出口から逃れられなかった。震災被害を吉原という定点で見るかぎり安政と大正で変化はない。そして、ことは吉原という特殊な地域だけの問題ではなかった。

関東大震災を機にそれまでに東京で起こった大地震や大火事に関する古い記録を調べた人がいる。寺田寅彦である。その結果は、これまでの経験はいつのまにかすっかり忘れ去られ、文明開化を誇るいまの人びとが昔の人の愚かさをそのままに繰り返しているという「不思議な、笑止な情けない事実」であった。(「事変の記憶」)
強い地震のあとで火事が起これば、土蔵などは火除けの役には立たない、水道は壊れる、火事で持ち出した荷物を広場に持ち込んでそれに火がつきたくさんの人が焼け死んだというのはいずれも日本人が過去の地震で経験したことがらで、関東大震災でも同様のことが繰り返された。
そこで寅彦は、いまの人間が昔の人に比べてちっとも利巧になっていない、進歩しているのは「物質」だけではないかと考え、それをある人に話したところ「物質が進んだ代わりに人間は退歩した。昔の自警団は罪もない人をなぶり殺しにはしなかった」との言葉が返ってきた。
大震災では朝鮮人による火つけや社会主義者が暴動を企てているといった流言に人びとは心惑わされた。明暦の大火でも由井正雪の残党が社会の混乱を引き起こしているとの流言があったという。おなじパターンとはいえ規模と深刻さでは両者に大きな開きがあるから人心の退歩は否定できないのかもしれない。
物質の進歩にしても寅彦自身「重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。そうして天晴れ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人名を危くし財産を滅ぼ」(「天災と国防」)してしまうと書いているように、そうした意味を含んだ「進歩」である。
安政と大正の大震災についてさほどの変化はなかったことを確認しようとしてすこしばかり先走りをしてしまったようだ。要は安政の大震災の教訓が関東大震災においてさほど活かされたとは思われない。
関東大震災の直後、両国の回向院を訪れた田山花袋は、同院には安政地震の犠牲者の霊が慰められていても安政のことはすっかり忘れ去られている、かつてあった火除地はいつのまにか人家になっている、どうして人はこうも忘れっぽいのか、どうしてこうも大胆になれるのか、と嘆いた。
安政から大正へ、人びとのなかには一身にしてとてつもない地震を二度も経験したなければならなかった者がいた。福沢諭吉は幕末から維新への変革の時代を「一身にして二生を経るが如く」と二つの人生を生きたようなものと述べて、江戸と明治の社会の変化を語ったが、地震への対応については安政と大正でこれといった変化はなかったようだ。 
(写真上は浄閑寺の新吉原総霊塔、下は同寺永井荷風筆塚)