軒燈

吉田健一『東京の昔』に、あのころは蕎麦屋鮨屋、小料理屋の店先によく軒燈がつるされてあり、それがいまになってノスタルジーに誘うという箇所がある。あのころとは一九三0年代東京。
「この軒燈が夕闇に浮び上つてそこでいつものやうに商売をしてゐることを知らせる感じはこの頃の営業中と書いた札を出してゐるのと話が違つた。さういふ軒燈を見て寄つて行く気を起すのでもそれを幾つも見て晩飯のことを思ひながら家に帰るのでもそれが東京の夕方だつた。そして豆腐屋の喇叭の音も聞えて来る。」
軒燈から思い出される昔の東京の夕方。そのころを生きた人でないとなかなか浮かんでこないイメージだ。軒につるした小振りな灯籠様なものに灯を入れる。落ち着きのある路地が薄暗くなるなかにぽっと店屋の軒燈がともると、山の手暮色という言葉が浮かんできたりする。
(写真は文京区春日で撮ったものです。)