「幸せへのキセキ」

一歩あやまると下手な人情話になりかねない素材が爽快で心暖まる端正な作品となった。「幸せへのキセキ」を観ての第一印象で、いちばんの要因は人物の造型と脚本が優れていることにある。
半年前に妻を亡くしたコラムニストのベンジャミン(マット・デイモン)は、悲嘆の極みにあって、社会生活への適応さえ心配される状態にある。おまけに十四歳の息子ディランが精神的な危機から非行を重ね退学となった。
ベンジャミンは息子と七歳の娘ローズとともに心機一転新しい人生を始めようと郊外に家を買う。すべては希望に叶う家屋だった。閉園中の動物園が附いているというひとつを除いて。
動物園は前の所有者の遺産により職員が配され動物たちは飼育されていた。ベンジャミンは動物園の再オープンを決意するがまったくの未知の世界であり苦労は絶えず資金難に陥ってしまう。それを支えたのは子供たちとケリー(スカーレット・ヨハンソン。全編ほとんど作業着姿の彼女はスッピンの魅力を感じさせる)をはじめとする飼育員たち、そして亡き妻だった。

ベンジャミンの動物園再開の決心を後押しした最大の力はおしゃまで愛らしい娘のローズのふるまいやそぶり、動物へのまなざしだった。実年齢も七歳というマギー・エリザベス・ジョーンズという子役はそこのところを天才的といってよいほどに表現している。
いっぽう息子のディラン(コリン・フォード)は孤独に苛まれ街に帰りたいと反抗する。父と息子の人間関係の修復にディランの思春期の恋がからむ。ケリーの姪で動物園に住むリリー(エル・ファニング)はディランに好意を寄せているのに、彼はどうしてよいやらわからないまま、無意識に彼女を傷つけている。人と人との関係をどう結びあうかという悩みはディランと父ベンジャミンに通じる問題でもある。だからディランによるリリーとの関係修復は、父と子の人間関係にもよい影響をもたらす。
ある日、父は息子に語る。思い悩んだ末に相手に告白をする、そのはじめの二十秒がどれほど勇気を要するものか、どんなに恥をかくかもしれない、それでもなお二十秒の勇気を持たなくちゃ、と。
動物園の開園にこぎつけたベンジャミンは子どもたちとともに、妻を見そめたレストランへ行き、二人がどのように出会い、自分がどんなふうに二十秒の勇気を発揮したかを身振り手振りを交え熱意をこめて語る。そこは二人が出会い結ばれた「奇跡」の場所、夫婦そして子供たちの人生の「軌跡」のスタートラインとなった地点である。ついこのあいだまでベンジャミンは妻を思い出させる悲しみのレストランとして近づくことさえ拒んでいた。
いま父と子供たちは「奇跡」と「軌跡」を新たな思いで受け継ごうとそこに立っている。
実話が基になっているという。動物園の再開ひとつとっても現実にはもっともっといろんな問題があったはずで、予定調和あるいはきれいごとに過ぎると考える向きもあるだろう。でも思いが傾注されているのは人間と家族のありようであり、そのためには余計と考えられるリアリズムは排されている。
監督のキャメロン・クロウビリー・ワイルダーへのロングインタビューで「私の興味は平均的な観客の趣味を高めること、ほんの少しだけ高めることにあった」との言葉を引き出している。(『ワイルダーならどうする』宮本高晴訳)。
幸せへのキセキ」はそんなワイルダーの言葉を思い出させる映画だが、複雑な陰影を帯び変化球、クセ球ありのワイルダーの作品群に対してクロウのこの映画は青天白日、奇策や変化球とは無縁、”WE BOUGHT A ZOO”という愚直とさえ見える原題にもそうした事情が窺われるようでもある。
それでもなおリアリズムにこだわる人には“Why not?"というほかないのかな。
(七月二日TOHOシネマズスカラ座