『古今亭志ん朝 大須演芸場』

トカゲを飼って大きくして財布にするんだと真面目な顔で親父の志ん生がいうものだから、長女の美津子はやむなく「何言ってんの、父ちゃん。トカゲがそんなに大きくなったら、財布にする前に父ちゃんが食われちゃうよ」と応えたところ怖がりの志ん生は一発であきらめた。美濃部美津子『おしまいの噺』(アスペクト文庫)にあるエピソードだ。同書は志ん生、馬生、志ん朝を生んだ一家の物語。志ん生のエピソードで笑いながらも、馬生、志ん朝の早い死を嘆かなければならないのが辛かった。
ちょうどこの本を読んだのが三月の終わりで、これが呼び水となったのか直後に『古今亭志ん朝 大須演芸場』のダイレクトメールが送られてきた。いまや伝説となった感のある志ん朝師匠十年にわたる独演会、そのライヴ録音のリリースは「事件」といってよい。さっそく予約を入れた。
先月そのCDブック『古今亭志ん朝 大須演芸場』(河出書房)が届いた。三十枚のCDにボーナスCDが二枚附くという大作だ。これまでの京須偕充プロデュースによる三百人劇場での独演会の三十余枚にこんどの大須演芸場がくわわった。そのうち臨時収入でもあれば東横名人会のCDや落語名人会のDVDも揃えたいと考えているけれど、とりあえずいまある七十枚近いCDを一年かけて聴くとすれば、終わったらはじめの噺に戻ってひさしぶりに聴いてみようとなるから、この繰り返しで生涯志ん朝師匠の落語がたのしめる。

志ん朝さんが六十三歳で没したのは二00一年十月一日だから早いもので十年以上経つ。大須演芸場での古今亭志ん朝三夜連続独演会は一九九0年にはじまり亡くなる二年前の九九年まで十回つづいた。お客さんより出演者のほうが多いとか「日本一客が入らない演芸場」といわれたりしながら、それでも寄席の灯を守り続ける足立秀夫席亭の心意気に応えた高座だった。
三百人劇場での独演会とはちがって大須での口演は公表を前提に収録されたものではなく、席亭が記録用にカセットテープに録音してあったものをCDに直したもので、モノラル録音の状態はあまり良くないし、なかには下座の出囃子が録音されていなかったり途中から入るものがあったりするけれど、志ん朝さんの噺の前ではそれらは瑕瑾でも何でもない。
これまで聴けなかった噺やファンとのやりとりにくわえ公表が予定されていたらこんな話はしなかっただろうといった内容のまくらが嬉しい。たとえば「お見立て」のまくらでは売春防止法が施行される前の自身の吉原初体験が具体的かつリアルに語られる。おまけに父志ん生、母りんさんから遊びの心得、諸注意を受けたというからびっくりだ。「それゃあ芸人の家庭ですからふつうの家庭とは違います」といっているが、この吉原体験を姉の美濃部美津子さんは御存知だったかしら。
おなじく「井戸の茶碗」のまくらで志ん朝師は、ちかごろは落語を聴いて古典芸能を鑑賞してきましたなんていう人がいるんですねと苦笑まじりの嘆息を漏らしている。落語に裃は不要、ふらりと寄席へやって来てうち解けた雰囲気で気楽に噺を聴いてほしいというのが志ん朝さんの思いだった。多少なりとも裃を着けることになるCD化のための録音をなかなか許可しなかったのもそのためだった。
久保田万太郎が大正十四年(一九二五年)十月に都新聞に書いた「寄席」という一文がある。(松本尚久編『落語を聴かなくても人生は生きられる』ちくま文庫所収)
このころ万太郎は日暮里に住んでいて、田舎住まいと書いているが、当時は都内各所に寄席が散在していて自宅近くにも動坂亭があり、万太郎がもっぱら行くのはこの寄席だった。少し足を伸ばせば上野に鈴本があり、いろものなら神明町に山谷亭、根津に歌音本などがあるが、行く気にならない。それを知って動坂亭なぞ格の低い寄席へ行くのは「みっともないからお止しなさい」と直言した通人もいた。
しかし万太郎には動坂亭のステータスなど関係ない。夜食事をすまし、所在なくぼんやりと外へ出てちょいとあるくと寄席があって、ふらりと入ってぽつねんと高座に耳を傾ける。若いときから万太郎はそんな寄席通いをしていたから、やっぱり近所にある動坂亭なのだ。
久保田万太郎志ん朝さんの寄席への思いが通じ合っているのはあきらかだろう。志ん朝さんは動坂亭のような寄席で万太郎のような客を相手の高座にあこがれていた。独演会に大須演芸場を選んだのも、万太郎が動坂亭をひいきにしたのとおなじ心情があったと思う。