蝙蝠(こうもり)

岡本綺堂の随筆「薬前薬後」の一篇「雁と蝙蝠」に、江戸時代の錦絵には柳の下を蝙蝠が飛んでいるさまがよく描かれていて、柳橋あたりの河岸を粋な芸妓があるいていると、その背景は柳と蝙蝠とするのが紋切形、定番になっていたとありました。
柳とくればつばめ。銀座で恋を語りあうのはさわやかな風になびく柳の下、そこにお似合いはつばめのはず。敗戦の傷跡も生々しい昭和二十二年(一九四七年)巷では「柳青める日つばめが銀座に飛ぶ日」と藤山一郎が歌う「夢淡き東京」(作詩サトーハチロー、作曲古関裕而)がヒットしていましたし、おなじ年、霧島昇は名曲「胸の振子」(作詞サトーハチロー、作曲服部良一)で「柳につばめはあなたとわたし」と歌っています。ところがこれに蝙蝠ときたものですから、毎度無知をさらけ出すのですが思いもよらぬ組み合わせに「えっ」となりました。
そんなことをTwitterでつぶやいたところ、ある博雅の士(豆犬888さん)から「蝙蝠は字に『福』が付いているので中国(支那)では吉祥の生き物とされています。遊廓に柳を植えたりする故事も唐渡りのようですし、何か関係あるやも。縁起を担ぐ花柳界の慣わしでしょうか。安物ですが柳と蝙蝠の酒盃を一つ所有しています」とのおたよりを酒盃写真付きで頂戴しました。

季語でつばめは春、蝙蝠は夏だから、季節によって柳への取り合わせを変えていたのだろうか。あるいは江戸のむかしは柳に蝙蝠だったのがいつのまにかつばめに変わったかのかな。それともつばめも蝙蝠もありだったのでしょうか。
日本国語大辞典(第一版)でやなぎを引くと、柳に蟻、柳に風、柳に鞠といった取り合せは出ているのに、つばめも蝙蝠も出ていません。「梅に鶯、柳に燕」という慣用句があります。同大辞典には「梅に鶯」は立項されていて用例も示されているのですが「梅に鶯、紅葉に鹿」というもので、ここにも柳は見えていません。といったしだいで柳とつばめと蝙蝠の関係はよくわかりません。宿題としておきます。
ただ、こんなことを調べているうちに江戸の人々にとって蝙蝠はずいぶんと親しい生き物だったと知りました。幕府のお鷹方で、書物愛好家として知られた片山賢の随筆『寝ぬ夜のすさび』に、市川団十郎が紋に一輪牡丹を用い、これを福牡丹と呼び、さらに福牡丹の福の字を蝠に見立てて蝙蝠を紋にしたところ評判となり、やがて夏衣の染模様や簪のさし込み、櫛の蒔絵、手拭などに蝙蝠の絵を描くのが流行したとあります。天保期のことでした。
岡本綺堂が、化物屋敷に不意に飛びかかって人の生き血を吸う蝙蝠が住んでいたといった話はあっても、市中に飛んでいる小さい蝙蝠は鬼気や妖気など関係なく、夏柳の下をゆく美人の影を追うにふさわしいと見なされていたし、ときには子供たちも蝙蝠を追いまわした、けれどそれもいまはむかしで、街路樹に柳を栽えている町はあるが、その青い蔭に蝙蝠の飛ぶを見ない、と「雁と蝙蝠」に書いたのは大正の末年でした。
『半七捕物帖』の作家が少年だったころには鳶に油揚げを攫われる光景が見られたとか。まだ江戸の名残をとどめた空には季節に応じて鳶や蝙蝠、つばめなどが飛び交っていたから、それに較べるといまの空はずいぶんとさびしくなったなと思ったことでしょう。