「崖っぷちの男」

西洋精神史の学究として立教大学明治大学の教壇に立ついっぽうで平凡社の『世界大百科事典』の編集責任者をつとめた林達夫に「十字路に立つ大学」という評論がある。一九四九年に発表されたこの論考は、大衆社会のなかでの大学の行く末を論じてのちの大学紛争を予見したともいわれる。
このなかで氏がめずらしく自身の処世術に言及した箇所がある。それは「教師らしくない教師、ジャーナリストらしくないジャーナリスト」として「仕事の場をアマチュア精神でいく」というもので、背景には「素晴らしいプロフェッショナルなゲームに、アマチュアとして参加する」というイギリスが育んだ精神があると論じた。
まえにも申し上げたことがあるが「巻き込まれ型」の冒険・スパイ小説や映画が好きだ。プロフェッショナルどうしの熾烈な対決よりも、はからずも何かの事情によりはめられてしまった平凡な人間が窮状から脱出するためにやむなく自分を陥れたプロたちと闘わなければならなくなるといったエンタティンメントだ。たとえばエリック・アンブラー「あるスパイへの墓碑銘」あるいはヒッチコック北北西に進路を取れ」いずれも「素晴らしいプロフェッショナルなゲームに、アマチュアとして参加する」傑作で、わたしのなかではこのイギリスが育んだ精神が林達夫とアンブラーとヒッチコックを繋げている。

崖っぷちの男」(原題:MAN ON A LEDGE)は題名から想像されるように罠にはまった男の窮地からの脱出を描いた作品だ。崖っぷちに立たされたのは元警察官だからげんみつにいえばまったくのアマチュアではないけれど、彼を陥れた悪のプロフェッショナルに比べるとその度合はアマチュアだ。
三十億円のダイヤモンド強盗の罪で服役中の二ューヨーク市警の元警察官ニック(またまた「アバター」のサム・ワーシントン登場)が父親の葬儀への参列許可を利用して脱走を企て、ニューヨーク、マディソン街にあるルーズベルト・ホテルの二十一階の窓外の壁縁に立つ。目撃した通行人は直ちに自殺志願者として通報し、ホテル前の大通りは警察と野次馬、マスコミで大混雑となる。
駆けつけた警察にニックは交渉人として女性刑事のリディア(エリザベス・バンクス好演!)を指名する。経歴を調査した上でのわけありの人選だ。ニックはリディアと交渉しながら、別の人物とも連絡をとっている。相手はやがてニックの弟だと知れる。ダイヤモンドの盗難被害に遭った会社(社長がエド・ハリス、この人が出ると「悪の品格」が高まりますな)にニックは弟とその恋人を潜入させている。

こうしてリディアとのやりとりは市警内部のニックを陥れた連中に衝撃をもたらし、そのことが市警に対応策の混乱をもたらす。
会社ビルへの潜入は盗まれたとされるダイヤの所在を突き止めるためだが、これにはさまざまな障碍が待つ。
ホテルの壁縁に立つ自殺志願者は大通りを埋めたリーマン・ショックこのかた崖っぷちに立たされた人びとの心に微妙な共感を呼び起こす。
これらの要素が絡まりながらスリルとサスペンスに富んだ物語が展開される。
アスガー・レス監督は、情報を小出しにしながら観客をジグゾーパズル的なおもしろさでぐいぐい引っ張って行く。それでもなお収まりきらない切片があり(映画のあとこれを論じあうのも一興)くわえて説明不足や肌理の細かさを欠く箇所も散見されるキズは否めないけれど、ひいき目ながらそれらもあずかって懐かしいB級活劇の味を醸し出している。
(七月十六日TOHOシネマズ六本木)