手縫いの足袋

この四月に出た新潮文庫の新刊『私の銀座』を読み、よい機会だと以前に古書市で買っておいた『銀座が好き』にも眼を通した。いずれも「銀座百点」に載ったエッセイを収めていて、後者は一九八九年に求龍堂から刊行されている。
双方合わせると百四十篇ちかく、執筆者は早くは一九五六年の先代水谷八重子、近くは二0一0年の林真理子に及ぶ。併せ読むと銀座界隈を中心とする日本人の生活風俗を知るよすがとなる。

(福原路草 銀座八丁目パーラー前 昭和十三年 『銀座が好き』より)
戦争で寂れる前の銀座には舗道に沿ってたくさんの夜店がならんでおり、とくに西側が賑やかだったという。なかには古本屋もあって吉田健一尾張町の角近くの店でめずらしい初版本を置く店があり堀口大学の『月下の一群』や芥川龍之介の『羅生門』『傀儡師』の初版を見つけたと回想している。
戦後は一時期の闇市はともかく、もう夜店はなくなったと思っていたが「いまでも露店があるのか、とおもう人もあるかもしれないが、ところどころにかろうじて存在している」と吉行淳之介が書いたのが一九七0年で、銀座街頭の夜店でパーカーやシェーファーのインクを買っている。
一九七0年前後はわたしは大学生で東京に暮らしていたのだが銀座へ出る機会もすくなかったから夜店を見かけた記憶はない。新聞、週刊誌、宝くじを売るおばさんの姿はだいぶんのちまであったけれどいつしか見なくなってしまった。
多士済々にわたる「銀座百点」の執筆者、そのなかの映画演劇関係では長岡輝子北林谷栄の両ベテラン女優のエッセイにそのキャリアからくる風格を感じた。長岡輝子一九0八(明治四十一年)生まれ、北林谷栄一九一一年生まれ。お二人とも長命でともに二0一0年に亡くなった。
長岡輝子は昭和三年にパリ(女優は巴里と表記)に渡り都市の魔力を味わった。劇場でミスタンゲット、ダミヤ、ジョセフィン・ベイカーの歌を聴いた。三年後に帰国して金杉惇朗と学生劇団テアトル・コメディをつくり銀座に稽古場を置いた。劇団員には森雅之北沢彪、十朱久雄たちがいた。なんだか凄いなあ。
いっぽうの北林谷栄。むかし銀座には亀屋、明治屋、大野屋という三軒の大きな洋酒屋があり、彼女はこの大野屋に生まれた。落語専門の席亭と講釈専門のそれがあり祖父のお供で毎夜交互に行っていた。父のお供は西銀座裏にあった金春館で、パール・ホワイト、リリアン・ギッシュ姉妹などを知ったという。いやはやこちらもたいへんなもの。
ところで長岡輝子テアトル・コメディの稽古場は並木通りの資生堂本社前にある木造の古びたビルにあった。当時、喜多という方が所有者で、喜をとって三ツ喜ビルと呼ばれていた。その親戚にドイツのバウハウスシステムを見学して帰朝した仲田定之助がいたため、この建物の借り手は芸術関係者が多かった。長岡輝子によると一階には世に出たばかりの川上澄生の版画が並べてあり、二階はコメディの稽古場、その隣には多くの舞台と映画で美術監督を務めた伊藤喜朔のグループがいたというふうに。
ビルの所有者と縁続きだった仲田定之助(一八八八年〜一九七0年)、この美術家、美術評論家に『明治商売往来』という正続二巻の著作がある。青蛙房刊で一九七0年に日本エッセイストクラブ賞を授賞しており、ちくま学芸文庫にも収められている。

ここで仲田は「あの頃、足袋屋はいたるところにあった」と語っている。明治二十一年生まれで、「あの頃」は明治の二十年代後半から末にあたる。同書によると当時の東京の足袋屋にはどの店にも奇妙で抽象的な雲のかたち(といわれてもイメージは浮かばないけれど)をした看板があって、それだけで何の店かすぐにわかったという。店先には裁断するもの、底生地を縫いつけるもの等々大勢の奉公人がいた。
「あの頃」の足袋は手縫いで、店により足の甲の高さや足幅などに型取りの特色があって、客は好みに応じて贔屓にしていた。なかには店先で、半紙の上に足を乗せて輪郭をとらせて特別誂えをする客もいたが、やがて足袋も大量生産されるようになり、デパートで売られるようになった。
北林谷栄が父と祖父とともに席亭に通っていたころはまだ手縫い、誂えの足袋があっただろうが、長岡輝子が劇団を設立した昭和のはじめとなるとさてどうだったか。おそらくお二人とも子供のころは手縫いの足袋を履いていただろうし、採寸した誂えの足袋だって持っていたかもしれない。
やがて機械化が進む。洋服の普及とともに靴下に追い打ちをかけられる。こうして手縫いの足袋屋は過去のものとなる。『明治商売往来』の著者がなつかしむゆえんである。
芝木好子『隅田川暮色』に手縫いの足袋にまつわるはなしがある。

足の寸法が人より小さい八文七分、細形、甲なし、出来合で間にあったことがないという老女の若き日の思い出である。
「私の足袋を吸いつくような履き心地に仕立ててくる男がいたっけ」「男は下谷の老舗の若い職人だったけど、足の型をとりにきて寸法のあと、足の底へ手をまわして握りしめたの。足の弾力で厚みでも計るのかもしれないけど、こちらは乳房でも掴まれたように驚くわねえ」。
職人は年に一度ずつ寸法を取り直しにやって来た。
「私は黙って素足を出してやりましたよ。足袋はいつ履いても心憎いほどぴったししていた」。
この作品が現在時点としているのは一九六0年(昭和三十五年)であり、ここでの老女の追懐だから、回想されている時期はちょうど「あの頃」明治の後半とかさなる。
採寸のときに感じた「乳房でも掴まれたよう」な驚きとときめき。下谷の若い職人が寸法をとりに来なくなったのはいつごろだったろう。