「ミッドナイト・イン・パリ」

アニー・ホール」や「マンハッタン」でニューヨークの映像に魅せられた人だったら、ウディ・アレンのパリと聞いてじっとしていられるはずはないだろう。その期待に応えるかのように「ミッドナイト・イン・パリ」はつぎつぎと重ねられてゆくパリの街角の魅惑的なショットからはじまる。バックにはシドニィ・ベシエのソプラノサックスが奏でるジャズが流れて錦上花を添える。シドニィ・ベシエはパリを拠点に活躍した黒人サックス奏者であり、作曲した「Petite Fleur」は日本ではザ・ピーナッツが「可愛い花」として歌ってヒットした。
脚本家のギル(オーウェン・ウィルソン)と婚約者のイネズ(レイチェル・マクアダムス)はアメリカで会社経営をするイネズの両親のパリ旅行に便乗してこの街に滞在している。

ギルはパリのとりことなり、おまけにどうした具合かアンティーク・カーに乗りあわせると憧れの一九二0年代のパリへタイムスリップ。そこには自作を弾き語るコール・ポーターや踊るジョセフィン・ベイカーの姿があった。
夜ごとに訪れたその世界でギルはスコット・フィッツジェラルドゼルダの夫妻やアーネスト・ヘミングウェイパブロ・ピカソサルバドール・ダリルイス・ブニュエルマン・レイといった芸術家たちと出会う。脚本家にコンプレックスをもつ作家志望のギルにはフィッツジェラルドヘミングウェイとの出会いはひとしおのよろこびをもたらしていた。
ギルとは対照的にイネズはいまのパリにもノスタルジックなパリにも関心をもたない。そのため二人の心の隔たりがあらわになり、パリ旅行は互いの考えを確認しあう、ひいては「自分探し」の様相を帯びることとなる。
いっぽう二十年代のパリでギルはアドリアナ(マリオン・コティヤール)に惹かれる。モジリアーニのモデルをしたこともあり、いまはピカソと愛人関係にある魅惑的な美女だ。彼女への恋心からこのまま二十年代のパリに居つづけようとしたギルだが、アドリアナが魅せられているのはもっと前のベル・エポックで、思いはひとつにならない。
こんなふうにしてギルは現在と過去のパリを往還しながらこれからの自身の生き方に悩む。ウディ・アレンの分身としてのギルの姿は悩める現代人の自己形成、ビルドゥングス・ロマンであり、そのはてに「現実」に生きようと思いを定めた決断で、映画は二十年代のパリへの断念を秘めて現代を生きる人生への讃歌となる。
開巻早々これほど素敵なパリの夜はマノエル・ド・オリヴェイラ監督の「夜顔」以来だなあとか、パリのアルバムとしてだけでもDVDは持っていたいよねなんて思ったものだった。
この魅惑のパリを舞台とする大人のファンタジーから同系列の「カイロの紫のバラ」に思いがおよぶのは自然の成り行きで、あの映画では、スクリーンで夢の世界を見ているときだけ現実の辛苦を忘れているセシリアと彼女に一目惚れしてスクリーンから飛び出して来たトムとのつかのまの恋が描かれた。最後はトムのスクリーンへの帰還、そしてセシリアはフレッド・アステアジンジャー・ロジャースミュージカル映画に目を凝らし夢の世界を見つづけている。
働きもせず酒と博打と女に興ずる夫、自身もウエイトレスの仕事ではヘマを重ね怒られてばかり。そうした現実をなぐさめ、ひとときでも忘れさせてくれるのが映画、その意味で「カイロの紫のバラ」は映画ファンに夢を差し出した作品だった。しかしファンタジックな出来事のあともセシリアの生活になんら変化はない。夢の出来事を体験した者は夢のさめたあと現実からしっぺ返しを喰らう。ウディ・アレンがいうように「人間は現実と空想のあいだで選択を迫られ、そこでは当然現実を選択しなければならず、現実は常に人間を打ちのめす」のである。(エリック・ラックス『ウディ・アレンの映画術』井上一馬訳、清流出版)

ミッドナイト・イン・パリ」でもギルは「現実と空想のあいだで選択を迫られ」最後には現実を選択せざるをえないし、しっぺ返しだって喰らう。ただしギルは夢がさめたあとに夢を見つづけるだけの人間ではない。自身を取り巻く現実を変えてゆこうとする意欲もあれば小説家をめざす確固とした意志も持っている。
ウディ・アレンのなかで「現実は常に人間を打ちのめす」という世界観がどれほどに変化したのかはわからないけれど、このまえの「人生万歳!」(原題 Whatever Works)からも窺われるように、すくなくとも「現実」を肯定し、そこにはたらきかけようとする度合はずいぶんと高くなっている。
映画館を出たあと六本木ヒルズから東京タワーの夜景を眺めているとパリの夜景と二重写しになり旅心が募った。
(五月二十八日TOHOシネマズ六本木ヒルズ