「ヒューマン・ファクター」と「裏切りのサーカス」ランダムノート(其ノ二)

裏切りのサーカス」の予習としてグレアム・グリーンヒューマン・ファクター』を読み、映画を観たあと原作のジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(549頁)を読み、さらにその続編『スクールボーイ閣下』上(461頁)下(423頁)、『スマイリーと仲間たち』(575頁)を読んだ。というわけでこのひと月間はスパイ小説三昧だった。いずれも刊行当時以来だからおよそ三十年ぶりの再読に心躍った。
英国の諜報機関のうち対外関係を担当するNI6(サーカス)上層部に潜み、ソ連に情報を流している二重スパイを追求する第一作。KGBの工作指揮官カーラとの対決の一環として香港に派遣された男の諜報活動と絶望的な恋が描かれた第二作。男の恋にはエスピオナージュ版ペペルモコ、あの「望郷」の雰囲気が漂う。そして第三部でスマイリーはカーラとの直接対決をめざす。
このスマイリー三部作を四月二十九日に読みはじめ五月二十三日に読み終えた。文庫本全2008頁を二十五日かけて読んだしだいで一日平均80頁の計算になる。むかし読んだときはたぶん倍以上の日にちをついやしたはずだ。いまは職もカネもないぶん時間だけはあり、集中力をもって愉しめるのがうれしい。
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裏切りのサーカス」で、イギリス諜報部の責任者コントロールはMI6(サーカス)内に潜行するスパイ「もぐら」のあぶり出し作戦の失敗の責任をとって補佐役のスマイリーともども退職し、そのあとほどなくして亡くなる。わたしの勘違いなのかもしれないけれど、映画では変死のようにも見えた。小説ではその死は心臓麻痺であることが明記されている。
そのコントロールは『寒い国から帰ってきたスパイ』宇野利泰訳では「管理官」と訳されている。本名はだれも知らない。管理官は、寒い国から帰ってきたアレック・リーマスにいう。「われわれが不快な行動をとるのは、彼我双方の国民を、安らかにベッドにねむらせたいと思えばこそだ」と。

いわれたリーマスも、諜報戦に疑問を投げかける恋人でイギリス共産党員のリズに、敵国に配したスパイの有効利用は、きみが賛美する愚劣な大衆を、夜、ベッドで安らかに眠らせることを可能にすると説く。管理官やリーマスの活動がほんとうに所期の効果をもたらしているかどうかはさておくとして、リズは、それであなたは悩むことはないのと食い下がるが、リーマスは、諜報戦は戦争なんだ、通常の大規模な戦いに較べればなにほどのことはない、いやでたまらないことではあっても、それで大量の殺し合いを防いでいるとこたえる。
正しい目的のためにはやむをえずあくどい手段を行使することもありうるというわけで、前回述べた『スクールボーイ閣下』のなかでのジョージ・スマイリーの「人間性を擁護するために非人間的になり、同情心を擁護するために冷酷になる」という考え方も管理官やリーマスのそれと軌を一にしている。イデオロギー上の信念は別にして、紳士は他人の手紙をのぞいたりしないという道徳律と対立する諜報活動はどうして、何のためにという問題が鋭く問われる。国際政治の様相がどうであれ、またハイテク機器がどれほどに発達しても、この問題への答えのないところに諜報活動は成り立たない。人間性を擁護するため云々というのがジョージ・スマイリーの答えである。しかし彼はそのことの哀しみや苦さをわかりすぎるほどわかっている。だから『スマイリーと仲間たち』のラストで同僚のピーター・ギラムに「ジョージ、あんたの勝ちだ」と声をかけられても「わたしの?うん。そうだな。そうかもしれない」としか応じられない。
それでもなお手段の正当性よりは目的遂行が優先するのが諜報の世界なのである。それはわたしにも、そして多くの人たちにも素直にはうなずけるものではないけれど、たとえば9・11のごとき企みを事前にキャッチしなければならないときにリベラリズムヒューマニズムがどれほど有効なのかと問われると答に窮するのも否定できない。
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先日の本ブログ「裏切りのサーカス」という一文で、わたしは「日の名残り」の原作は日本生まれのカズオ・イシグロであり、「裏切りのサーカス」は英語作品ははじめてのトーマス・アルフレッドソンというスウェーデンの監督、いかにもイギリスを思わせる作品にイギリス生まれではない人たちの才能が発揮されているのが興味深い、と書いた。

日の名残り」ではアンソニー・ホプキンスダーリントン卿という政界の名士に長年仕えた執事を演じた。「日の名残り」の執事と「裏切りのサーカス」スパイ、いずれもイギリスらしさの漂う職業であり、これを非イギリス人である小説家と映画監督が優れた作品に仕上げている。
イギリスらしさと非イギリス人との関係について、丸谷才一カズオ・イシグロ日の名残り』の書評において、個人の才能の大きさとともに「外国系の作家なのでイギリスおよびイギリス人に対し客観的になることができるせいもかなりある。それから、その条件によつてイギリス小説の富を学びやすいといふこともある」と述べ、過去にあった同様の事例としてヘンリー・ジェイムズジョゼフ・コンラッドの名を挙げている。
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[以下「裏切りのサーカス」の結末に触れますので御注意下さい。]

東西冷戦下、長年の作戦失敗や情報漏洩から、イギリスの諜報機関MI6(サーカス)のリーダーであるコントロールは内部にKGBの二重スパイがいると判断、「もぐら」に関する情報源と接触するためジム・プリドーをチェコに送り込む。しかし作戦は失敗し、コントロールとその補佐役ジョージ・スマイリーは引責辞任する。
情報漏洩はあきらかだった。実戦部隊の責任者だったジム・プリドーは謀略に気づいて立ち去ろうとしたが遅く、背中に被弾する。命拾いしたプリドーは拷問を受けながらの事情聴取のあとイギリスに送り返される。とくに条件もない異例のはからいだった。
帰国したプリドーはサーカスでの審問のあと諜報機関とは縁切りになり、小学校の先生となる。
いっぽうサーカス内部ではジョージ・スマイリーが特命を受けてMI6に潜行した二重スパイ「もぐら」探しの作戦がはじまった。特定された結果はサーカスのロンドン本部長ビル・ヘイドンだった。
そこでジム・プリドーがイギリスに送り返された理由が浮かび上がる。
ビル・ヘイドンとジム・プリドーは「愛人関係」にあるらしい。ジム・プリドーを操るKGBのカーラはその事情を知っていて、ヘイドンの長年のスパイ活動に酬いるためにジム・プリドーを帰国させたというわけだ。
もちろんプリドーはヘイドンが「もぐら」であるのは知らなかった。彼にすれば作戦失敗で被弾したのは「愛人」がモスクワに情報を漏らした結果であり、ビル・ヘイドンは自分をKGBに売った張本人なのだ。
ビル・ヘイドンはサーカスの囚われの身となり、そのヘイドンをジム・プリドーが射殺して映画は終わる。
原作の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』でもビル・ヘイドンは囚われている施設内で死んでいるのが発見されている。しかしジム・プリドーによる射殺とは明示されていない。
と書くと、わたしが読み巧者の反対、読み下手であるのを告白しているのかもしれないので、あまり大っぴらにしないほうがよいのだろうけれど、しかし原作からはジム・プリドーがビル・ヘイドンを射殺した可能性はあっても、はっきりとそう述べられてはいない。
たしかにプリドー先生が担任をしているローチくんという観察もっぱらの小学生の眼に、一時期プリドーはあきらかに変調をきたしていたし、銃をいじる姿も見られている。
他方でビル・ヘイドンの死をめぐる上層部のやりとりは以下の具合になっている。

〈「ロシア人だな、やっぱり」大臣がヘイドンのなにも反応せぬ死体に向かって、得々としてつげた。「口封じのためだろう。ごろつきどもの手口だ」
「ちがいますね」と、スマイリー。「彼らは身内の人間を取り返すことを誇りにしています」
「では、だれがやったんだ」
 だれもが、スマイリーの返事を待ったが、返事はなかった。懐中電灯がつぎつぎに消され、一行は自信のない足どりで車に引き返した。〉

仮にロシア人でないとすれば、サーカスの意志としてビル・ヘイドンを殺した可能性だって考えられる。プリドーが犯人であってもサーカスの意を受けた行為だったのかもじれない。犯人の捜査をはじめた気配はないのである。もちろんプリドーにヘイドンを殺す個人的動機はあった。しかしほんとうにそうしたのか。映画では殺したが、小説もそう読まなければならなかったのだろうか。
もちろん原作と映画は違ってよい。だから別物と考えて済ませてしまうほうがよいのかもしれない。しかし、映画の製作総指揮のひとりに作者のジョン・ル・カレが入っており、作者はビル・ヘイドン殺しはジム・プリドーとして読むべきだといっているのであれば、わたしの読解力ともかかわる問題だけに気になるところだ。