「三重スパイ」

二0一0年に八十九歳で亡くなったフランス・ヌーベルバーグの名匠エリック・ロメール監督がスパイ・サスペンスの映画を遺してくれていた!
このほどシアター・イメージフォーラム「フランス映画未公開傑作選」のひとつとして公開された「三重スパイ」がそれで、まことにありがたい反面これほどの作品が二00三年に製作されながらいままで輸入されなかったのが不思議であり残念でもある。
それはさておき「海辺のポーリーヌ」や「緑の光線」の監督が撮ったスパイ・サスペンスはエスピオナージュ大好きなわたしにはそれだけで「事件」である。魅惑の映像で描かれた恋愛模様のなかのささやかな秘密や機略の延長線上に諜報の世界があったのはうれしい驚きだった。
一九三0年代のパリ。ロシア帝政軍の元将校フョードル(セルジュ・レンコ)はギリシア人の妻アルシノエ(カテリーナ・ディダスカル)とともにパリに亡命し、在仏ロシア軍人協会に勤めている。

映画はナチス帝政ロシアソビエト連邦の三重スパイの嫌疑がかかっていた亡命ロシア人による元帝政軍将軍の誘拐事件を大胆に翻案したものとされるが、ノンフィクションとして考えるとこれ以上ないほどスパイの物語にふさわしい環境設定だ。
ソビエト政権にとって旧ロシア帝政軍の動向は気になるところだし、亡命した元軍人のなかには故国での復権をもくろむ者もいるだろう。隣国ドイツではナチスの勃興があり、おなじくスペインでは内線が勃発する。フランス国内ではナチスとの関係をめぐる政治的対立は緊張の度をくわえている。国際政治の複雑に張り巡らされた網の目がフョードルとアルシノエの夫婦を取り巻いている。
といってもエリック・ロメール監督のことだからこれ見よがしの大仰な映画になどするはずはなく、ここで監督が採った方法は当時のニュースフィルムを自在に挟みこみ、そのあいだを夫婦の会話を中心につないでゆくというもの。ヒトラースターリンの時代、スペイン内戦、独ソ不可侵条約など当時の政治状況と家庭における夫婦の会話劇というマクロとミクロの映像が交互に示されることでサスペンスの度合は高まり、フョードルの行動の不可解さが増してゆく。とてもセンスのよいおしゃれな手法だと思う。
夫婦のアパートの上階には高校教師のパサール夫妻が住んでいる。冒頭フョードルは通りで新聞を読んでいる夫のパサールとすれ違う。フョードルは瞬時にパサール氏が読んでいたのがフランス共産党の機関紙「ユマニテ」であるのを見ており、自宅での妻への話しぶりから観客はフョードルが緊張した状況にある政治的人間であると知らされる。
いっぽうアルシノエのほうはパサール夫人と知り合い、夫妻の幼い娘をモデルに絵を描いてプレゼントしたりする仲になる。まれに絵画が売れたりもするこの素人画家の絵はアバンギャルド色のないリアリズムの風景画、人物画であり、そこからは政治的人間ではないが絵画を通して一定の観察力をもった女性であることが窺われる。
やがてスペインで内戦が勃発するとフョードルの「出張」が多くなる。ところが行くとは聞いていないベルリンで彼の姿を見たという知人からの情報がアルシノエに寄せられ、問いただすとフョードルは諜報活動を行っていると打ち明ける。
夫への愛と冷静な観察とは反比例しがちであり、そのなかで夫の活動に占める妻という要因はだんだんと大きくなる。フョードルの行動はしだいにアルシノエを巻き込んでゆく。夫の諜報活動のサスペンスに愛と疑惑のはざまに置かれた妻の不安がくわわり事態は驚きの結末を迎える。
静謐と緊張感が漂うドラマにふさわしい映像、パリ郊外の風景や当時のファッション、絵画を映したシーンが美しく、この点でも魅力的な映画だ。
(五月十四日、シアター・イメージフォーラム
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