昼下がりのスパイ小説とジャズ

幸田文が父露伴の酒を回想した「蜜柑の花まで」によると、むかしは酒を搾るのは寒中の季節ちょうど紅梅の咲く時季、少し白く濁った初搾りの新酒をついだ盃に紅梅をうかせて飲むのがならわしだったという。露伴はこうして飲む新酒が大好物だった。あいにく日本酒をほとんど飲まない、飲めないので関心も薄くいまも酒を搾るのに季節があるのかどうかは知らない。
ようやく桜の季節を迎えた。紅梅をうかせて飲んだのだから花の宴には桜の花びらを盃に受けて飲んだのだろうことをたしかめたくて若月紫蘭『東京年中行事』を開いてみたところ、履中天皇が皇后と船を池に浮かべての遊宴の折り桜の花が散って盃にうかんだのをよろこばれ、その花のありかを探そうとされたとの記事があった。
まだ桜には間のあるどこかの峠で梅をうかせた酒を飲み、東京へ帰って桜で飲む。こんな旅だとわたしも日本酒を好きになれそうだ。
ここまで書いてなんとなく華やいだ気分になり上野から本郷にかけての桜を見ようと散歩に出た。

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新文芸座の特集上映「女優・岩下志麻」でいずれも初見の「五瓣の椿」と「はなれ瞽女おりん」を観る。そのあと岩下志麻さんのトークショー。お客さんの入りは相当なものだろうと予想して出かけたのだったが、予想をはるかに超えて当方立ち見のはめに。いますこし遅いと入れなくなるところだった。
「五瓣の椿」が163分、「はなれ瞽女おりん」が118分、そのあとトークショーがおよそ60分だったから映画館で六時間ちかく立ちつづけたなんてはじめての体験だ。さすがに岩下志麻さんのトークショーとなると凄い。わたしは短時間で体の向きを変え、壁に凭れたり離れたりとけっこう体を動かしていたのだが、左右両隣の方はそれほど動いている気配がない。日頃の鍛錬が不足しているのだろうか。

といったことをTwiiterでつぶやいたところ、それを見た同好の士から、昨日は自分も鑑賞していて、まさかそれほど長時間立てりっぱなしの方がいたとは!通路に座り込んで観ている人もたくさんいらっしゃいましたが、座る場所も無かったのでしょうか?とのおたよりをいただいた。
そうなんですよ、わたしの四五人後ろで入場打ち切られていましたからギリギリのところだったんです。通路も皆さん座っていらして、後ろの壁に沿って並ぶほかなかったんです、入れただけでもさいわいでしたと返信。
すると、それは大変でしたね、不幸中の幸いの不幸とでも言うのでしょうか(笑)というユーモアあることばでなぐさめられた。
「はなれ瞽女おりん」の日本海側の各所にロケした瞽女の漂泊の旅の風景が素晴らしく、宮川一夫カメラマンによる宮本常一の世界が眼前にあるみたいだった。トークショー岩下志麻さんはこの映画では八十数カ所をロケしたとおっしゃっていた。岩下さんの声がとても力強く、姿勢、たたずまいが凛としている。見習わなくては。
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フィルムセンター「よみがえる日本映画大映篇」のトップバッターは「青空交響楽」。
父の牧場を継いだ東京育ちの青年(杉狂児)と別荘の令嬢(朝雲照代)の恋を描いたこの国策映画は国民の癒しを目途としていたのか、それともまだ学童疎開ははじまっていないものの、牧場ではたらき、ときに川に魚を釣りといった田舎暮らしのよさを宣伝するためのものだったのか。
戦争まっさかりの一九四三年(昭和十八年)一月公開の作品にもかかわらず春風駘蕩といった言葉が浮かんでくるほどたのしくのんびりとした音楽劇。霧島昇が牧夫役で出演しているのもうれしい。千葉泰樹監督はいつもながら巧いものだ。
主題歌は「故郷の白百合」と「青い牧場」。ともにサトウ・ハチロー作詞、古賀政男作曲。歌ったのは前者が霧島昇と松原操、後者が藤山一郎奈良光枝。この映画に奈良光枝は出ていないけれど今回上映されるなかに彼女の出る「修道院の花嫁」と「看護婦の日記」が含まれているので心待ちにしている。
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「青空交響楽」のあと京橋から銀座へ出て喫茶店グレアム・グリーンヒューマン・ファクター』を読む。三十余年ぶりの再読で、今回はハヤカワepi文庫の加賀山卓朗氏の新訳本。ジョン・ル・カレ『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』が映画化され「裏切りのサーカス」としてまもなく封切られるのでその「予習」を兼ねて読んでいる。
『ティンカー・テイラー・・・』も『ヒューマン・ファクター』もともにイギリス情報部の幹部キム・フィルビーがソ連と通じていた事件に刺激を受けているが、いずれもそれをなぞって書くような作家ではなく、作品の世界はル・カレによればドキュメンタリーとしての背景はあるが「あとは知的資料にもとづく絵空事」であり、グリーンは「われわれの空想の物語は現実のなかから生み出される」とのハンス・アンデルセンのことばを引く。
事件を承けて紡ぎ出された「絵空事」と「空想の物語」は発想、展開、人間観の違いを見せつついずれ劣らぬ名作である。『ヒューマン・ファクター』を読み、映画を観て、『ティンカー・テイラー・・・』および『スクールボーイ閣下』『スマイリーと仲間たち』の三部作を読むつもりだからしばらくエスピオナージュの季節がつづく。
ヒューマン・ファクター』に引き込まれて静かな興奮を覚えるうちに時計を見るとはや一時間ほど経っている。すこし興奮を静めようとiPodビル・エヴァンス・トリオ「エクスプロレイションズ」を聴いた。スコット・ラファロのベースはイヤホーンで聴くにはもったいないけれど贅沢いってちゃきりがない。
珈琲を飲みながらスパイ小説の名作に没頭し素敵なジャズを聴く平日の午後。在職時には思いもよらなかったささやかなしあわせ。優れた職業人にはほど遠く、すこし早い退職を考えたこともあったけれど、そうしていたなら多少ともすっきりしない気分が生じたかもしれない。その意味で最後まで勤めたことはこのちっちゃな幸福のためにはよかった。
ところで『ヒューマン・ファクター』の主人公モーリス・カッスルはJ&Bというウィスキーを愛飲している。わたしは飲んだことはなく三千円以下だったら買って帰ろうと有楽町のビックカメラの酒販場へ寄ったところ半額以下の値段なので嬉しくなってしまった。

ひところ村上春樹の『もし僕らのことばが、ウィスキーであったなら』で紹介のあったシングルモルトのいくつか、アードベッグボウモアブナハーブンなどを飲んでみた。違いのわからない鈍感なわたしにもそれぞれの個性は感じられた。なかでもアードベッグのスモーキーかつ土臭い強烈な個性は特筆もので、昨年ヨーロッパ旅行からの帰りの免税店ではこの銘柄の上級品を求めた。とはいえ毎度アードベッグをたしなむほど酒に強くもないし、それに価格のことだってある。その点J&Bはお手軽でいいな。帰宅して飲んでみたところ水や炭酸で割ると物足りないくらいライトな味わいでロックでちびりちびりとやるのにふさわしい。淡い琥珀色の液体を口に含みながら「エクスプロレイションズ」のなかでもお気に入りの「イスラエル」と「ビューティフル・ラヴ」を聴いた。
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