『サラの鍵』

書店の棚にタチアナ・ド・ロネ『サラの鍵』(高見浩訳、新潮クレスト・ブックス)を見かけた。映画「サラの鍵」(本ブログ2012年1月5日の記事を参照してください)がとてもよかったものだからそのまま通り過ぎるわけにはゆかなかった。
オビには角田光代さんと小泉今日子さんの書評が引かれてあり、いずれも2010年のものだから、すでに刊行当時話題を呼んでいたのだろう。世間の評判にうとく、わたしは映画を観たあとも原作については知らないままだったのだが、読みはじめてたちまち遅ればせであれこの本にめぐり会えてよかったと思い、そのきっかけとなった映画に感謝した。

一読、唸ってしまった。ストーリー・テリングの巧みさと筆力(もちろん訳者の力が与っている)に。重いテーマであり、快調に読み進められる小説ではない。にもかかわらず巻を措くことができない。
ユダヤ人を連行するフランス警察にむかって「その人たちをどこにつれていこうというんだ?正直で善良な市民なんだぞ、その人たちは!そんなことをしていいのか!」と叫び、逃亡中のユダヤ人少女を前に「この国はいったい、どうなってしまったのかしらね?」と低くつぶやく市民の姿に何度も目頭が熱くなった。もちろんその対極には眼を背け、鼻を覆いたくなる実態がある。
1942年7月16日早暁、ヴィシー政権はパリとその近郊に住むユダヤ人13152人のユダヤ人を検挙し、ヴェロドローム・ディヴェールという屋内競技場に連行し押し込めた。競技場の名を短縮してヴェル・ディヴ事件と呼ばれている。六日間にわたり粗末な食事しか与えず、トイレもほとんど使えない状態におき、ほぼ全員をアウシュビッツに送り込んだ。戦後、帰還できたのはおよそ400名にすぎなかった。事件はナチス・ドイツの意向がはたらいていたとはいえ企画し手を下したのはフランス警察だった。
十歳の少女サラの家族も拘束された。そのとき、少女はフランス警察の眼を盗んで弟ミシェルを自宅のアパートの納戸に鍵をかけて隠した。すぐに帰ってくるから待つように、といって。機転を利かしたつもりだった。ところが彼女の思惑ははずれ、そのまま収容所送りとなった。
2002年のパリ。夫と娘とパリで暮らすアメリカ人女性記者ジュリアがヴェル・ディヴ事件を取材する過程で、夫の祖父母のアパートが事件でアウシュビッツに送られたユダヤ人家族の住まいだったことを知る。しかもサラという名の長女は事件の逝去者名簿になかった。収容所から逃亡したらしい。
小説の前半はサラとジュリアのふたつのストーリーが交互に語られ、やがて交叉する。後半はジュリアによるサラのその後の人生と、これにかかわってのジュリア自身の生き方が探られてゆく。今回この小説を読んで、映画が原作にとても忠実なのを知った。両者を比較すれば、ジュリアと夫のベルトランの「不協和音」の比重が小説では高くなっている点だろう。
ジュリアの取材は自身と周囲の人々に、ヴェル・ディヴ事件の渦中にあったサラの人生をどう考えるのか、少女にどのように向き合ってきたのか、そして明らかにされた事実にこれからどう向き合うかを迫る。
「フランスはまだ暗黒の歳月からの回復途上にあるんだわ。果たして、本当に元通りになるのかしら。たしかなのは、この国はもうわたしが子供だった頃のフランスではないということ。それとは別のフランス、わたしには見分けがつかないフランスになってしまった」と事件がもたらした傷痕に痛みを覚える人のいっぽうに「ジュリアのしたことはやりすぎだと思うわ。過去を甦らせるなんて、とりわけ戦争中に起きたことを甦らせるなんて、やりすぎもいいところよ。だれだって、そんなことは思いだしたくないじゃないの。いまさらそんなことを考えたくはないじゃないの」と過去を忘れたい人がいる。このふたつの考え方のあいだを揺れている人も多くいるだろう。
ことはフランスだけの問題ではない。日本だって、戦争体験のない平成生まれの若者が遺族会の活動をしているかと思えば、京都大学佐伯啓思氏のゼミで加藤典洋敗戦後論』を取り上げた際にある女子学生が、戦没者への哀悼の意やアジア諸国への謝罪だとかの議論をなぜいまごろくどくどとしているのだろうか、こうした議論に意味があるとは思えない、こんなテーマで本を書くことはもはや無意味であると述べたという。(佐伯啓思現代日本イデオロギー』)
小泉今日子さんは「サラの鍵」の書評で「過去の出来事は変えられないけれど、今を生きる私達がそれを知り、向き合い、目を逸らさなければ未来を少しだけ変えることが出来るかもしれない」と述べている。
正論であるのはたしかだけれど、未来を少しだけ変えるために、どのように過去に向き合えばよいのか。現在の、そしてこれからの平和を創ろうとする意志と過去に向き合うことはどのように絡むのか。そこのところがわたしにはよくわからない。血縁つながりで遺族会活動する若者が過去に向き合っているとおなじく、京大生のほうも向き合っているのだと思う。仮に後者が過去に向き合っていないとしても、だからといって平和の価値を貶めているというものでもあるまい。
過去に向き合うことを不要だとか否定しているのではなく、問題はその質にある。たとえば戦時中の悲惨な体験を一方的に語り、それを拝聴するという行為は一種の儀式であってもほんとうに過去に向き合っているのだろうか。そんなわたしが「サラの鍵」では、過去の出来事と今を生きることが別個のものではないことを痛切に感じた。そのことをここまで追求し、示してくれる本はめったにあるものではない。

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《コマーシャル》
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御一読、御批評賜れば幸いに存じます。