「戦火の馬」

耕作用の馬を求めて馬市にやって来た貧農のおやじテッド・ナラコット(ピーター・ミュラン) が、そのサラブレッドを見た瞬間、あまりの素晴らしさに大金を投じて連れ帰ります。農夫に家計のことなど忘れさせた馬はジョーイと名付けられ、ナラコット家の一人息子アルバート(ジェレミーアーバイン)が一意専心世話をし、まもなく少年と馬とのあいだに友情といってよいほどの通い合いが生まれます。
夫のあとさきを考えない行動におかみさんのローズ(エミリー・ワトソン) は激怒するのですが、でも「あなたを恨むことが多くなっても愛は減らないわ・・・」といってテッドを(そして観客を)ジーンとさせるのでした。しかしながら家計の苦しさは増すばかりで、やむなくテッドはジョーイをイギリス軍に売ってしまいます。

ときは第一次世界大戦。ジョーイはフランスの戦地に行くこととなりました。戦地での軍馬の扱いは厳しいものにならざるをえません。そうした事情がアルバートの嘆きや悲しみをいっそう大きくしたでしょう。じじつジョーイと馬どうし心通じていた一頭は行軍のとちゅうついに力尽きてしまいました。
ここで思い出すのは一九四0年の亀井文夫監督のドキュメンタリー「戦ふ兵隊」です。この映画では転戦する日本軍に棄てられた病の馬がカメラの前で崩れるように倒れそのまま死んでしまいます。南京から漢口に向かう夕日の荒野で軍馬がうずくまり、がっくりとなる。スクリーンには「迫撃の急な時、兵隊は病馬を捨ててゆくことがある。こんなとき、兵隊は心の中で泣いている、しかし、作戦上やむを得ないのだ」という字幕がありました。
ひょっとするとジョーイもこんなふうになったかもしれないのです。
しかしこの馬は大切にしてくれるイギリス人将校やドイツ軍を脱走した少年兵の幼い兄弟、両親を失い祖父と暮らすフランスの少女たちとの出会いと別れを経ながら「戦火の馬」となります。いっぽうアルバートはジョーイを探すため徴兵年齢に満たないにもかかわらず入隊し激戦下のフランスへと向かいます。
ここまで書けばあとはもうおわかりでしょう。それに監督はスティーブン・スピルバーグなのです。くわえてウオルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンが配給元です。すべてお察しのとおりです。「戦火の馬」は「奇跡の馬」でもあるのですから、やがて感動の場面が用意されているのはもちろんです。
だからわたしは、さあ感動してくださいといわれて、そう簡単に術中にはまるのはイヤだ、方程式の空欄に代入されて自分の感動数字が出てくるなんてお断りだよ、スピルバーグさんとちょっぴり反撥と抵抗を覚えつつスクリーンを見つめていました。だけど劇場を出るときは、うーん、よい映画だったなあと満足していたのですからスピルバーグ氏にしてやられたのでした。いや、それともわたしは自分が思っているよりずっとずっとやさしく素直な人間なのかもしれません。そういえば「シンドラーのリスト」のときも似たような光景がありました。
第一次世界大戦はもっと機械化された戦争のイメージがあったけれど、まだ馬が重要な働きをしていたんですね。まるでドン・キホーテの時代じゃないかと思わせるシーンだってありました。塹壕から出て来た英独の兵士が協力して満身に鉄条網が絡まったジョーイを解き放してやる。それがスクリーンのなかに垣間見た幻影だったとしても、背景には兵士と馬との関係が密だったという事情があるからこそなのです。この敵味方の兵士が一頭の馬を救う場面を撮る監督の脳裡には「大いなる幻影」があったと想像します。
テッドおやじはボーア戦争に従軍中に戦友を助け、そのときの負傷で歩行が不自由になりました。心と身体の傷をいやしてくれるのが酒で、そうした夫の気持がわかっているからこそ「愛は減らない」のです。たんなるお酒のみの大兄のばあいとは事情が異なりますので勘違いしてはいけません。「戦火の馬」はイギリスの農村(ノスタルジックで美しく心に沁みます)でジョーイという馬がつないだ中年夫婦の愛と再生の物語でもあります。
(三月五日TOHOシネマズ渋谷)
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《コマーシャル》
このほど拙著『永井荷風と部落問題』がリベルタ出版より刊行されました(1900円税別)。
御一読、御批評賜れば幸いに存じます。