昔の歌にはまった!(其ノ三)

二月十五日
夕刻池袋の喫茶店毛利眞人著『沙漠に日が落ちて 二村定一伝』を読み終えたあと二村定一のCDを聴く。
『沙漠に日が落ちて』は二村の人生の軌跡が丹念にたどられ、またレコーディングの資料が詳細で行き届いている。まちがいなくこれから二村定一については本書が基本のきほんとなるだろう。
色川武大少年に、坊や、学校なんかへ行ってちゃいけないよ、あんなところへ行ってもろくなことにならないとうそぶく二村晩年の屈託が切なく、CDの楽曲に胸が熱くなった。そう、毛利さんがいうように「定一は飛び抜けて明るい声質なのでごまかされがちだが、この明るい声は哀しみと表裏一体の声なのである。隠し味のように悲哀がにじみ出る独特の歌唱を、彼はクルーナーという手法を借りて表出した」のだから。

そのあと七時からの新文芸坐落語会へ。前座の柳亭市也「元犬」のあと、立川志らく「長短」「時そば」で仲入り。後半は柳亭市馬「二番煎じ」。そのあと市馬、志らくお二人の師匠による対談。

志らく師が「時そば」のまくらで、談志師匠が亡くなってからテレビがしょっちゅう「芝浜」を流すものだから、いまや一番有名な落語はあの噺になっちゃった、それまでは「時そば」でしたよ、といったところで本題に入る。
志らく師のまくらで話題になった談志師匠の生前最後の「芝浜」で、おかみさんが「おまえさん、怒っちゃいやだよ」といって芝の浜でのお金の一件の真相を亭主に告げるところ、わたしはどうしても感情が出過ぎているとの思いをぬぐえない。けして批判しているのではない。親の死にさいして、号泣するのと、「親孝行したいときには親はなし、さればとて墓に布団は着せられず」と軽口のなかにそこはかとない哀しみを込めるのと、どちらがよいかなど議論になるはずもない。つまり自身の体質が後者であることを談志師匠の「芝浜」を通じてあらためて確認したという話である。
懐メロ大好きな市馬、志らくのお二人の対談の話題はもっぱら昔の歌に集中した。志らく師が、談志家元から伊藤久男の「建設の歌」を一番から三番まで歌えるかと訊かれたので歌ったところ、よく知ってると大変にお褒めにあずかったとのエピソードを披露していた。
「建設の歌」は一九四0年(昭和十五年)に公開された長谷川一夫李香蘭主演の国策宣揚映画「熱砂の誓ひ」の主題歌で、映画の出来はよいとは思えないが李香蘭の人気の前にはそんなことは関係なく映画、主題歌ともにヒットとなった。「歌ふ李香蘭」でファンが日劇を七廻り半とり囲んだのは翌年の紀元節の出来事だった。
それはともかく「建設の歌」を一番から三番まで歌ったというのはなかなかのものだなあ。わたしは一番と二番は歌えるが三番となると一部フレーズさえ口にできない。一九三0年代、戦時色が濃くなるまえの「昭和の小春日和」(戸板康二)に関心を持つ者としては市馬、志らくのお二人の師匠を見習ってもっと、もっと当時の音楽についても知っておかなくてはいけない。歌謡曲にくわえて「ニッポン・モダンタイムス〜日本のスウィング・エラ1928-1942」のCD群が二百曲以上のジャズやタンゴをもたらしてくれている。

二月十六日
午後、世田谷文学館の「都市から郊外へー1930年代の東京」展を見に行く。
DVDとCDと企画展といったいろんな波が押し寄せて、自分が昭和のモダニズムのなかで生きている錯覚に襲われそう。

当時の面影が写真(「街の肌合いー桑原甲子雄の一九三0年代の東京」)や版画(「東京・版画・三十年代ー稲垣知雄が刻んだ東京の貌」)で示されている。
桑原甲子雄の写真を見ているうちにハタと気づいたことがある。
かねがねわたしは「東京行進曲」と「東京ブルース」の歌詞に散りばめられているいろいろなアイテムを追求して時代風俗を見てみたいと考えている。「東京ブルース」は関口宏の奥様の西田佐知子に同名の曲があるが、そちらではなく一九三九年(昭和十四年)に淡谷のり子が歌ってヒットした曲である。「昔恋しい銀座の柳」の「東京行進曲」ほど有名ではないがふたつとも西条八十作詞で、当時の先端の事物を嵌め込んで東京を表現するという点ではおなじ手法、おなじ意図によるものだ。
「東京ブルース」。長くなるので一番と二番の歌詞を挙げておこう。なお作曲は服部良一
〈1雨が降る降る アパートの
  窓の娘よ なに想う
  ああ 銀座は暮れゆく
  ネオンが濡れるよ
  パラソル貸しましょ 三味線堀を
  青い上衣(うわぎ)でいそぐ君

 2ラッシュ・アワーの 黄昏を
  君といそいそ エレベーター
  ああ プラネタリウム
  きれいな星空
  二人で夢見る 楽しい船路(ふなじ)
  仰ぐ南極 十字星〉

アパート、銀座のネオン、青い上衣、エレベーター、プラネタリウム、夢見る外国への船路。以下、喫茶店、紅茶、フランス人形といった当時の都会的なシンボルが登場する。なかでよくわからなかったのがプラネタリウムだ。

そこで写真だ。有楽町の東京日日新聞のビルに東日天文館とあるではないか。都心の天文館は当時の東京のシンボルにふさわしかったのだろう。帰宅してネットで検索をかけたところ「二木紘三のうた物語」というブログに次のようにあった。
プラネタリウムについて天文家の小川誠治さんから、有楽町駅前にあった「東日天文館」かもしれない、という示唆をいただきました。/東日天文館は、日本で2番目のプラネタリウムとして、昭和13年(1938)11月に開館。同20年(1945)5月25日の空襲でプラネタリウムのあった階などが被弾しましたが、建物やドームは残って、戦後東京放送のスタジオとして使用されたそうです。/昭和42年(1967)、新有楽町ビル建設に伴い解体されました。/この歌がリリースされる1年前のオープンで、場所も有楽町というデート(当時はランデブーでしょうか)の名所でしたから、作詞に当たって西條八十が着目した可能性は高いといってよいでしょう。〉
ところで世田谷にはP・C・L(のちの東宝)の撮影所があったから、映画の撮影風景やポスターもしっかり、さらに建築、広告と展示は多岐にわたっている。伊勢丹新宿店のメインフロア中央通路やエレベーターホールの広がりと奥行きのある空間を庶民は豊かさへの入り口のように感じていたのではないか。

モダニズムだけに眼を向けていては時代は捉えられないとは承知している。三十年代の東京は本展覧会の図録冊子が指摘するように「満州事変や二・二六事件といった事項が象徴するような、戦争へと向かってどんよりと暗く灰色がかった空気がたちこめる都会」と「カフェーにモボやモガが集い、蓄音機で流行歌をかけ、映画館でトーキーを楽しむ、さらには浅草のレビューに多くの人が魅せられていた、モダン都市・東京」の二つの光景が同時に存在する都市だったのだから。ただ、わたしにはこの頃が戦争とモダニズムとは別に、伝統とモダニズムが調和できた最後の時代だったとのイメージがあり、その点でいとおしく感じられるのだ。
会場には「流行歌にみる一九三0年代ー古賀政男西条八十・宮田東峰」の展示もあり、なかで当時のうたが聴けるコーナーが設けられていた。昨夜話題の「建設の歌」もあったのでヘッドホンを掛けてみたところ、この曲、四番まであったのをはじめて知った。ただし伊藤久男が歌うのは三番までで四番は男性コーラスで歌われている。そこのところを承知で談志家元は志らく師に三番まで歌ってみろといったのだろうか。とすればこれまた凄いねえ。
きょうはプラネタリウムの謎が解けたのがうれしく、YouTubeで「建設の歌」を聴いたあとハイボールで乾杯。
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