座頭市余聞

世には他人にはない特別な才能をもつ人がて、異能とか異才と呼ばれています。江戸時代、さいころを壺に入れて振ると思うがままに賽の目を出すことができたというばくちの名人がいたそうです。さいころを自由自在にあやつられては勝負にならないからやがて博徒たちから忌み嫌われ相手にされなくなりました。異能ゆえにかえって暮らしは苦しくなったのです。
そこで名人は近隣の国に流れてゆき、生活を立てようとしたのですが、狭い博徒社会ですから顔見知りも多いし、どこからともなくうわさは伝わって賭場から排除されてしまいます。やむなくもっと遠くへ出向き、名前を隠し、いずれかの村に大負けした者がいると聞けば訪ねてゆき、負けた相手への雪辱戦をお手伝いしましょうってなことを申し出てもうけの幾分かを頂戴したり、胴元に付き従い、形勢が悪くなるとやおら壺を振っておこぼれを戴いたりしていました。
けれど、こういう名人にかかった博徒、旦那衆は懲りてしまいますから、長く一カ所に滞在するわけにはゆきません。だいいちこんな人がいては勝負の緊張やダイナミズムは失われてしまいますからばくちがちっともおもしろくありません。こうして名人は約束の謝金を手にするとそこを去って他に移らなければならず、流転の境遇を送らざるをえなかったそうです。 

さて、この壺振りの名人に対して、賽の目を当てる名人を配したらどうなるのでしょうか。というのは、勝新太郎の当たり役だった座頭市子母澤寛の随筆集『ふところ手帖』に登場するのですが、ここで市っつあんは「物凄い程の勘で、ばくち場へ行っても、じっとしていてにやりと笑った時は、もう壺の内の賽の目をよんでいて、百遍に一度もそれが違ったことがなかった」と紹介されています。座頭市は仲間に丁か半かを合図する。読みに狂いがないからもう勝負はあきらかなのです。
つまり壺振りの名人に賽の目を当てる名人を配しても勝負は成り立ちません。中国の故事にもおなじようなはなしがありました。とはいえ神ならぬ人間の仕業です。さいころは矛と盾よりもだいぶん操りにくそうですから、どこかで上手の手から水が漏れるかもしれません。ここが勝負の分かれ道となる可能性はあります。
壺振りの名人と同様、座頭市がいれば結果は決まっているのですからこちらも賭場から追放されておかしくないのですが、市のほうはそうはならなかった。巧みにその異能異才を小出しにしていたのでしょうか。それとも仕込み杖を用いる居合いの名人は盲目の侠客であり按摩さんもしていたから博徒専一でなかったのがよかったのかもしれません。身の処し方にも見識が窺われ、親分の飯岡助五郎に嫌気がさして、みずから何処かへと去って行ったのが、人の知る座頭市の最後でした。
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