「バス停留所」異聞

「七年目の浮気」でマリリン・モンローが二階からトム・イーウェルの部屋に降りて来るシーン。ナイトドレス姿のモンローが、ビリー・ワイルダー監督の眼にはブラジャーが透けているように映った。
「ナイトドレスの下にブラジャーはしないんじゃないのかな」
するとモンローは「ブラジャーってなんのこと?」といって監督の手を取って胸に押し当てた。
「ブラジャーはなかった。かたちといい固さといい、重力にさからっている具合といい、モンローの胸はそれ自体がひとつの奇跡だった」。
ヘルムート・カラゼク『ビリー・ワイルダー自作自伝』(瀬川裕司訳、文藝春秋)にあるワイルダー監督の回想である。

巧みな語り口による艶笑譚だが、いくつものモンローの伝記が、彼女はこんなふうに話題にされるのをひどく嫌い、気に病んでいたと伝えている。
スーザン・ストラスバーグは『マリリン・モンローとともに』(山田宏一訳、草思社)で、「七年目の浮気」について「こんな役をやらなければならないのは、これを最後にしてほしいわ。これからもくだらない映画で、身体をくねらせつづけなきゃならないと思うと、映画の仕事なんか二度とやりたくない」としかめっつらをしていたと書いている。
マリリン・モンローはセックス・シンボルの扱いにうんざりしていた。彼女は女優として生きたかった。スーザン・ストラスバーグの父リー・ストラスバーグが指導するニューヨークのアクターズ・スタジオに通ったのもそのためだった。
「七年目の浮気」が一九五五年。その四年後五九年にビリー・ワイルダーはふたたびモンローを起用して「お熱いのがお好き」を撮る。このときはもめごとの連続で、周囲のセックス・シンボルへの視線と、本格的女優を志向するモンロー自身とのあいだの矛盾は飽和点に達していたようだ。
当時、モンローの演技コーチを務めていたリーの妻でスーザンの母のポーラ・ストラスバーグはスーザンの著書のなかで「監督をはじめ、みんなうわべは彼女をスター扱いしているけど、腹のなかでは軽蔑してるの。ブロンドの白痴女がいい気になって何様だと思ってるんだってね」と語っている。
二つのワイルダー作品のあいだの一九五六年にモンローは「バス停留所」に出演している。監督はジョシュア・ローガン。このときのモンローは精神的にも安定して、撮影は順調だった。
ポーラ・ストラスバーグは「お熱いのがお好き」のときと対比して、なぜビリー・ワイルダーはジョシュア・ローガンみたいに上手にやれないのかと嘆き、そして「ジョシュア・ローガンはマリリンを尊敬し、マリリンもそれを感じて、すべてをうまく演じていたわ」と語っている。
バス停留所」でのモンローは身体をくねらせるとそれでよしといった扱いは受けず、それに応えるようにアクターズ・スタジオでの成果を活かそうと力を尽くした。女優としての転換点をめざした作品なのだった。
ただし、モンローの映画としては評価できても、映画の出来具合となるとビリー・ワイルダーの作品には及ぶべくもない。

アリゾナでのロデオ大会に参加するためにモンタナからやって来た若きカウボーイ、ボー(ドン・マレー)が、ロスでの成功を夢見る歌手シェリー(マリリン・モンロー)にひとめぼれし、強引に力ずくで結婚を迫る。はじめはなんとかあしらっていたシェリーだが、ボーのしつこさに音を上げ、とうとう町から逃げだそうと決意する。やがて雪降るバス停留所シェリーはボーにホロリとさせられて恋仲に、というのがストーリー。モンローはもとより脇を固めるアーサー・オコンネル、ベティ・フィールドらもよい。
問題はボーの描き方である。
カウボーイの修業に明け暮れ、モンタナから出たことのないボーは西部開拓時代の生き残りのような男だ。もちろん恋愛は未体験ゾーン。だから、といってよいのかどうか、自分が好きになった女は自分になびくものだと思い込んでいる。もしもなびかなければ牛とおなじにロープで縛りつけてしまえばよいのだ。
人によっては純情一途と映るのかもしれないけれど、わたしにはせっかくのモンローの熱演を台なしにするキャラクター設定であり、ひどい悪のりとしか思えなかった。役者の問題ではなく、監督の構想したドラマトゥルギーの拙さであり、ひいてはその人間観がどうにも理解しかねたというのが正直な気持だ。
ところがこの気持が先日来微妙に揺らいでいる。きっかけとなったのはさきごろ読んだ内田樹『うほほいシネクラブ』(文春新書)のなかの「ブロークバック・マウンテン」を評した一文のなかの以下のところ。
〈『西部開拓史』でデビー・レイノルズが高らかに宣言したように「カリフォルニアでは女一人に男四十人よ!」というほどに開拓時代には性別人口比率が非対称でした。ほとんどのカウボーイは配偶者を得られずに生涯を終えることになりました。だから、カウボーイというのは「男同士の愛」のあり方について研究する機会がきわめて豊かに与えられた職業だったのです。〉
〈この映画から私たちはアメリカの白人男性のメンタリティについて、いくつかの重要なヒントを得ることができます。彼らがなぜ女性を「財貨」として珍重するのか。彼らがなぜ自分たちの「ホモ・ソーシャル」な文化をグローバル・スタンダードにしたがると同時にひた隠しにしたがるのか。(以下略)〉
カウボーイたちがそれほどいびつな性別人口比率のなかにあったなんてこと、まったく知らなかった。ロッキー山脈地域にあり、広大な青空でよく知られ「ビックスカイカントリー」と呼ばれているモンタナ州であるが、そのビックスカイとは裏腹に、ひょっとするとカリフォルニア以上に配偶者問題はきびしい状況にあったのかもしれない。
とすれば「バス停留所」の若きカーボーイ、ボーくんも、時は一九五0年代であっても、このような過去を背負った生活と文化になにほどか取り巻かれていたのだろう。あの傍若無人のはしゃぎぶりは、異性と断ち切られていた男の渇望であり、「男同士の愛」に向かったかもしれない男が見た異性との愛のかすかな可能性に衝き動かされた強烈な感情表現だった。そして、えげつないまでにシェリーに迫り、嫌がる彼女を抱きかかえてさらっていこうとしたのは「財貨」を獲得する得難い機会でもあった。
内田さんの文章からは「バス停留所」がこんなふうに見えてくる。この映画をめぐる気持が微妙に揺らいでいる所以である。
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