「サラの鍵」


一九四二年ヴィシー政権下のパリ。フランス政府はユダヤ人の大量検挙を行い、強制収容所に送り込む。「黄色い星の子供たち」でも描かれたヴェロドローム・ディヴェール事件(ヴェル・ディヴ事件)で、一九九五年に当時のシラク大統領がフランス政府の責任を認めるまで、事件はナチスドイツによる迫害とされてきた。レジスタンスの対極にはナチスユダヤ人迫害を支持し、みずからも手を下したフランスの姿がある。
このとき十歳の少女サラ(メリュジーヌ・マヤンス)の家族も拘束された。瞬時にサラはフランス警察の眼を盗んで弟を自宅のアパートの納戸に鍵をかけて隠した。すぐに帰ってくるから待つように、といって。機転を利かしたつもりだった。ところが彼女の目論見は外れた。そのまま収容所送りとなったからだ。弟はどうなっているのだろう。なんとしても収容所を脱走して救わなくてはいけない。
ニ00九年のパリ。夫と娘とパリで暮らすアメリカ人女性記者ジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)が夫の祖父母から譲り受けたアパートに、一九四二年のヴェル・ディヴ事件でアウシュビッツに送られたユダヤ人家族が住んでいて、一家の長女サラが収容所から逃亡したとの情報を基に、調査に乗り出している。
収容所で、弟を助けたい一心のサラは鉄条網の最下部、土とのあいだの隙間が大きくなっている箇所があるのを見逃さなかった。サラたちを見張るフランス人警察官の一人が協力してくれて彼女は逃亡できた。アパートへ急がなくてはならない。弟のいる納戸の鍵を握りしめて。


余談ですが、サラを助けた若い警察官はヴィシー政府の末端にいて、当然のことながら「カサブランカ」でクロード・レインズ扮したルノー署長と階級章は異なってもおなじ制服を着ています。ルノー署長はヴィシー水の瓶をヴィシー政府のシンボルと見立てて蹴り飛ばしたのですが、サラの逃走に手を貸したこの若者はルノーの息子ではないかという連想に及びました。閑話休題
サラの足跡をたどるジュリアの取材はつづく。サラは弟を助けることができたのか。そこからさき彼女はどうやって戦中、戦後を生きたのか。それとも・・・・・・。はたしていまも生きているのか。サラのアパートはどのような経緯で夫の祖父母名義になったのか。彼女の家族と祖父母はどのような関係にあったのか。なにがしかの関係があったとすれば、サラに関与した人がいるにちがいない。
スクリーンにはサラの人生の軌跡と、それを明らかにしようとするジュリアの動きが交互に映し出される。比喩としていえば、前者はすべてを知る神の視点からの映像であり、後者は前者に迫ろうとするジュリアの主観にもとづく映像である。ジュリアは事件を紐解いて、どこまで隠された事実、秘密を明らかにできるのか。
サラの探索をするジュリア自身、人生の岐路にある。四十五歳で待望の妊娠。しかし夫はこれから子育てに入るのは生活へのしわ寄せが大きすぎるという。思いもよらない反対だった。悩むジュリアのなかで、弟のために鍵を握って収容所から逃走したサラの姿と、高齢出産に臨もうとしている自分と胎内にいるわが子の命とが重なり合う。弟を救おうと決意して逃走を実行したサラの姿がジュリアのなかでしだいに大きくなってくる。 
重層する謎を前にしてジュリアの調査活動はつづく。自身の妊娠と家族のあり方という課題を担いながら。静謐といってよいたたずまいのなかでだんだんと封印された過去が明らかになってくる。すぐれたミステリーのもたらす緊張であり、ロス・マクドナルドのハードボイルドの私立探偵リュー・アーチャーが女性として甦った、わたしには一再ならずジュリアがそんなふうに見えた。
ヴェル・ディヴ事件に発するこの映画のテーマの重さとハードボイルドの私立探偵を結びつけるのは軽薄に過ぎやしないかと感じられるかもしれない。だけどこの映画の成功の大きな要因はテーマの重さを踏まえながらミステリーというストーリー・テリングの手法を採用したことにある。サラの運命、アパートの所有、関係者のその後、ジュリアとサラの精神的な結びつきというふうに当初から複合的な謎が提示され、それらを解明してゆくという構成が観るものの興味を惹きつけてやまない。
ジル・パケ=ブランネール監督の祖母は収容所で夫を亡くし、戦時中から戦後にかけて女手ひとつで三人の子供を育て上げたという。監督のなかでサラとジュリアとこの祖母は通じ合っている。そんな思いをより広範に受け止めてもらいたい気持が、工夫された巧みな語り口を採らせたような気がする。
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「サラの鍵」と前後してもうひとつの隠された過去を探る物語、民族や宗派間の抗争、憎悪と暴力の中東現代史を背景とした「灼熱の魂」を観た。
中東系カナダ人女性が実の子である双子の姉弟に謎めいた遺言と二通の手紙を残してこの世を去った。その二通の手紙は、姉弟が存在すら知らされていなかった兄と父親に宛てられたものだった。遺言に導かれ、姉弟は母の数奇な人生を探るべく母が生活した中東の地に旅立つ。
たいへん見応えのある作品であり、中東ロケの映像がぐいぐいと迫ってくる。
現在と過去にわたり複数の謎が仕組まれた「サラの鍵」と比較すればドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の本作の謎の提示は単純、直線的でミステリー仕立てというよりも母の過去を探るシリアスなドラマとの印象が強い。どちらをよしとするものではないが、ストーリーテリングの点では「サラの鍵」に巧さを感じた。
(「灼熱の魂」二0一一年十二月二十日日比谷シャンテ
(「サラの鍵」二0一一年十二月二十五日銀座テアトルシネマ)