刺青断章(其ノ二)

ラグビー・ワールドカップ(RWC)を見るかぎり刺青が世界でいちばんさかんなのはポリネシアとおぼしい。規制はもとよりタブー視もないみたいだ。
わが国もかつてはポリネシアとならぶ刺青大国であり、高度な技術を誇っていた。古くは「魏志倭人伝」に「男子皆黥面文身」という記述がある。黥面は顔に、文身は身体に刺青を施すのを意味している。邪馬台国の昔から一本調子というのではなく、はやりすたりはあるのだが、ピークを迎えたのが江戸時代中期で、博徒、火消、鳶、飛脚など肌を露出する職業では刺青をしていなければ恥だと見なされるほどだったという。

もっとも江戸幕府は法制上は刺青を禁令としていた。じっさいはゆるやかで、あまり効果はなかったらしい。江戸は北町奉行所のお奉行、遠山の金さんだって桜吹雪の刺青を彫って「この桜吹雪、散らせるもんなら散らしてみろぃ!」といっていたのだ。というのは講釈だけれど、そんな刺青も明治の文明開化の世になると外国からの眼も強く意識されて取り締まりは強化される。
戦前には警察犯処罰令というのがあり、これが刺青取り締まりの根拠法令となっていた。同令は一九四八年(昭和二十三年)に廃止され、以後法制面での刺青規制はなくなった。小学生の頃、ときどき刺青を彫った人を見かけたがみんなが一九四八年からあとで彫ったとは思われない。なかには戦前に彫った人もいただろう。たしかに明治以降の刺青規制は江戸時代に較べると厳しくなっただろうが、それでもけっこうゆるいものだったような気がする。当時は刺青者を銭湯、温泉が拒否するような風潮はなく、戦前の延長で許容の度合もいまよりもだいぶん高かった。刺青を取り締まる法令があるのに許容度は高く、反対に法規制がなくなっているのに刺青追放の機運が高まるというのは法律と社会意識との奇妙な関係を示している。

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小学二、三年生頃までは自宅に風呂がなくて銭湯に行っていた。そこでときどきいっしょになる近所の鍛冶屋のおじさんがいて、この人が背中一面に刺青を背負っていた。五十代後半だったろうか、もう肌の張りも失われた、しなびた身体だったから怖いとも、かっこういいとも、もちろん美しいとも思わなかった。
土佐弁でいうと「おんちゃん、どうして刺青彫っちゅうがぜ?」と訊いてみたかったが、子供心になんとなくはばかられて、だから鍛冶屋になる前はどうしていたのかは知らない。
「しばしも休まず槌うつ響き」ではじまる「村の鍛冶屋」の歌の鍛冶屋さんは「あるじは名高い働き者よ、早起き早寝のやまい知らず」だ。鍛冶屋さんで知るのは小学生のときの銭湯のあのおじさんだけで、小生、この歌を聴くたびに刺青が附いてまわる。
近年では何年か前に某地で朝からやっている銭湯があって出かけたところ、四十代半ばだろう、見るからに現役のその筋の方が、墨を入れた背中にお湯をかけていた。なかなか迫力があり、鍛冶屋とはだいぶんちがっておりました。特殊な方面の方には似つかわしくない早起きで、あるいは博打の明けだったのかもしれない。
かように刺青というのは若い張りのある肉体にほどこして、ある一定の年齢、人にもよるのだろうがせいぜい五十歳くらいまでは見ようによっては栄えるものなのだろう。

刺青師にしても年寄りのたるんだ肌には彫りにくいはずで、だから谷崎潤一郎「刺青」の清吉という刺青師が「光輝ある美女の肌を得て、それへ己れの魂を刺り込む事」を年来の宿願とするのは美学としてはよくわかる。「刺青」は一九六六年に増村保造監督、若尾文子主演で映画化されているが、墨を入れるのが若尾文子だからいいので、これがたとえば、いや止しておきましょう。
高島俊男先生の『お言葉ですが・・・』第十一巻に、一九六二年(昭和三十七年)アルゼンチンから日本へ来て東京外大の日本語科に入学したロベルトさんという方の話が載っている。
来日してまがなく、なにもかもがめずらしいロベルトさん、ある日、銭湯で全身に刺青をしたニイさんがいたので指さして「これは花キャベツですか?」と質問したところ「バカヤロ、こりゃ牡丹だいっ」と叱られた。ガイジンの眼にはせっかくの牡丹の刺青も花キャベツに映っていた。これも文化相対主義のあらわれでしょうな。
別の日、両の二の腕に細長いものを彫った爺さんがいたので「これヘビですか?」と訊ねた。爺さん憤然としただろうが、異国からの旅人に、これは「昇り龍と降り龍」と親切に教えた。皮膚がしわくちゃで龍が細くなっていてヘビにしか見えなかったのだ。駿馬も老いては駑馬に劣るどころではなく、侠客の龍の彫物は老いてはヘビになっていたのである。
余談ながらロベルトさん、このあとも銭湯で老人と会うといろいろ質問をして、その都度、老ヤクザは丁寧に応じた。その応対の立派さに、ロベルトさんは日本のヤクザに好印象を持ったという。