世田谷文学館に進路を取れ(其ノ三)

九月五日。まずは前回のクイズの解答についてです。八月二十日の世田谷文学館で行われた「文学とジャズ」コンサートからわたしがセレクトした五つの曲と文学との関わりについて。
A群
(1)Tonight
(2)Moon River
(3)Memory  
(4)I Could Have Danced All Night 
(5)Ev'ry Time We Say Goodbye
B群
(a)トルーマン・カポーティ
(b)レイモンド・チャンドラー
(c)バーナード・ショウ
(d)T.S.エリオット
(e)シェイクスピア

(1)Tonightは「ウエストサイド物語」のなかの曲ですね。そしてこのミュージカルは「ロミオとジュリエット」に着想して、一九五0年代後半のニューヨークに舞台を移した作品ですので答は(e)シェイクスピア。ついでながらわたしがはじめて買ったドーナツ盤のレコードは「ウェストサイド物語」のサウンド・トラック盤でした。A面がリチャ−ド・ベイマーとナタリー・ウッドが歌うTonight、B面はリチャ−ド・ベイマーのMariaで、純真な中学生はリチャ−ド・ベイマーはもちろんナタリー・ウッドも自身で歌っていると思いこんでいたのですが・・・・・・。
(2)Moon River は「ティファニーで朝食を」の主題曲、原作は(a)トルーマン・カポーティです。
(3)Memoryはミュージカル「キャッツ」で歌われています。物語は(d)イギリスの文学者T・S・エリオットの詩集「キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法」にアンドリュー・ロイド=ウェバーが曲をつけています。
(4)I Could Have Danced All Nightはミュージカル「マイ・フェア・レディ」の楽曲で、原作は(c)バーナード・ショウの戯曲「ピグマリオン」。ショウはこの作品のミュージカル化に否定的でしたので、その死後ミュージカルとなりました。
(5)Ev'ry Time We Say Goodbye 。(b)レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』でのフィリップ・マーロウとリンダ・ローリングの後朝のわかれのシーンでマーロウ探偵は言います。「フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。/さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」(村上春樹訳)。

こういう記事を書いていると、おのずと和田誠さんの『いつか聴いた歌』に手が伸びる。「ビギン・ザ・ビギン」(Begin the Beguine)にはじまって「歌は終われど」(The Song Is Ended)までスタンダード・ナンバー百曲を採り上げ、それぞれの曲にまつわる話題や著者のレコード遍歴、ショウ遍歴などが綴られている。ジャズが、スタンダード・ナンバーが好きな者にはこたえられない本だ。ただし上のクイズの五曲はこのなかには入っていません。

ピアノが弾けたらいいなとは思うけれどはなから断念している。いっぽう、あきらめずにもがきつづけているのは英語の歌詞を理解すること。さりとてあまり歌詞に集中していると自己目的化してしまい、曲の味わいどころではなくなるので語学力の足りない者にはなんともやっかいなものであります。
そこで『いつか聴いた歌』を開いて歌詞の大意や、歌についての知識を読み、音楽にひたる。単行本が文藝春秋から出たのが一九七七年だからずいぶん長いおつきあいをさせてもらっている。マニアックな本になるのだろうが、いわゆるおたくっぽさはなく、和田さんの趣味のよさやその人柄がほのぼのと伝わってくる。
この『いつか聴いた歌』、一九九六年には文春文庫の一冊に収められた。単行本の刊行から二十年近い歳月が経っていて、文庫本にはそのかんの新たな知見が盛り込まれている。

たとえば単行本の「ハロー・ヤング・ラヴァース」(Hello,Young Lovers)の項には、この歌はミュージカル「王様と私」のためにつくられ、一九五六年にユル・ブリナー、デボラ・カー主演で映画化された際、デボラ・カーが歌い手でないので歌はマーナ・ニクスンが吹き替えたとある。文庫本ではこれに新しく、マーナ・ニクスンは「ウエストサイド物語」ではナタリー・ウッドの、「マイ・フェア・レディ」ではオードリー・ヘプバーンの歌を吹き替えたことがさりげなく書き加えられている。
もうひとつヘレン・メリルのボーカル、クリフォード・ブラウンのトランペットでジャズ・ボーカルを代表する曲となったYou'd Be So Nice to Come Home To。単行本での邦訳は「帰ってくれたら嬉しいわ」だけれど文庫本では「帰った時のあなたは素敵」と訳し直されている。

旧訳だと帰るのは「あなた」、家にいるのは「わたし」なのだが、最後にToが附くと帰るのは「わたし」で家には「あなた」がいるとなり、そこで文庫本の歌の題名が変わった。まことに悩ましいToで、行く先はあなたがいる家、そこに素敵なあなたが待つという構図で、かつては男性歌手が歌うと戦地から帰ってきた兵士が妻や恋人のいる家へと向かうというシーンが連想されたという。
こうしてスタンダード・ナンバーの勉強は英語の力にもなるから、さきほどジャズが、スタンダード・ナンバーが好きな者にはこたえられないと書いたが、さらには恋と英語の力を付けたい人にもお勧め。
単行本『いつか聴いた歌』は「レコードを聴いてください。そしてステージに接してください。歌について何百ページ読むよりも、一曲の歌を聴く方がはるかに楽しいのだから」と結ばれる。まだレコードの時代だったのだ。
いまわたしは喫茶店で読書に倦んだとき、文庫本『いつか聴いた歌』とiPodを取り出して、気の向くままに本を開いては一曲につき二、三ページの記述を読み、iPodでその曲を探して聴いている。そうしていると「一曲の歌を聴く方がはるかに楽しい」よりももっと楽しい。