「瘋癲老人日記」な日々

七月十五日。新文芸坐若尾文子特集で「瘋癲老人日記」を観る。(併映は「雁の寺」)。一九六二年(昭和三十七年)大映作品。監督は木村恵吾。颯子を若尾文子、督助老人を山村聡が演じている。

谷崎潤一郎晩年の大傑作「瘋癲老人日記」は身体不自由、セックス不能に陥った七十七歳の督助老人が息子の嫁の颯子(さつこ)に惹かれ、イカレた苦悶と歓びの日々を描いた歴史的仮名遣いによるカナ書き日記体の小説。
一読、抜群に面白く、明治このかた日本の小説の最高峰の一つであると、乏しい読書経験を棚上げしたうえでわたし敢えて断言したい。面白いというのは多義的な言葉なので、どういった面白さかと訊かれると困ってしまうけれど、ここには笑いだけでも爆笑、哄笑、微笑、苦笑、嘲笑、憫笑がふんだんに散りばめられている。
谷崎がそうであったように、督助老人は女の足、脚線美への執着ただならない、いわゆる足フェチで、颯子が膝から下なら揉ませてあげるといえば嬉々として揉みはじめる。インポテンツといっても老人がそれで満足するはずはなく、やがて膝から上に手を伸ばそうとするが、そこは颯子が見越してコントロールし、なかなかそうはさせない。どうしてもというならキャッツ・アイを買ってよというわけで彼女は金品その他をしっかりせしめる。プールをお造りになればわたしの水着姿がいつも見られるわよ、と颯子から言われて老人はプール工事を発注する始末である。
この当時、大映は「鍵」「女経」「ぼんち」「痴人の愛」「女妖」といった「アブノーマルな傾向を含む文芸好色映画」(佐藤忠男現代日本映画』)を製作しており、「瘋癲老人日記」もその一編である。こうした傾向の作品について佐藤忠男市川崑監督「鍵」を引き合いに出しながら「好色映画も独自の文明批評的な面白みがあって興味深いが、これが、商業的な惰性で崩れてゆくならば、おそらくは商売としても難しくなるだろう」と述べている。そこのところを参照して「瘋癲老人日記」の評価をすれば、本作はストレートに老人と颯子の痴態を描いて、文明批評的な面白み云々といった要素は稀薄で、「フツーの出来」。
他方、谷崎はこの映画を「ひどく失望、憤慨しました」(昭和三十七年十一月七日渡辺千萬子あて書簡)とさんざんにけなしており、すでに企画段階で配役もシナリオもともに不満だと、おなじく渡辺千萬子あて書簡に書いている。わたしが「フツーの出来」というのはもうひとつ谷崎が言うほどにひどくはないとの意をも含んでいる。
颯子はわずかの期間NDT(日劇ダンシングチーム)に在籍し、やめたあとは浅草のナイトクラブで踊っていたという設定で、映画化に際して谷崎が推したのは淡路恵子だった。颯子のイメージに似つかわしいのは若尾文子それとも淡路恵子と問われると、わたしは淡路恵子派なので谷崎の不満はよくわかる。また老人の山村聡は力演で、よく引き受けたなあとその進取の気性を讃えたいものの、残念ながら好色老人のうさんくささやコミカルな面が不十分で、好色老人に似つかわしくないまじめさを感じてしまう。そうしたことから(キャスティングだけの問題ではないにしても)卯木家の表面的には公序良俗の秩序から浮いてしまっている颯子と老人の共犯関係という側面の描写が弱くなっている。
そこで当時に返ってキャストを検討すると、颯子を淡路恵子、老人をメーキャップに問題がないとすれば森繁久彌で演らせてみたかったなと思う。
いやいや、そんな昭和三十年代に立ち返っての話よりも、「瘋癲老人日記」は高度経済成長期以降の性意識の変化や高齢化社会における性の問題を踏まえて、いまこそ「文明批評的な面白み」のあるリメイクが期待される作品ではないか。颯子に小池栄子、老人に柄本明の配役はいかがだろう。

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七月二十日。映画「瘋癲老人日記」を観たものだから、この際、原作を再読しておこうと読みはじめた。本書は一九六一年(昭和三十六年)に、手が不自由になっていた谷崎が口述をはじめ、翌年中央公論社から上梓された。手は自由が利かず、外出も思うにまかせないなか、谷崎は颯子という女を造型する愉しみにふけっていたのではないか。

颯子はスレンダータイプの美人で、身長は老人よりもすこし高くて百六十一センチ五ミリある。颯子がNDTで踊っていたのは昭和二十年代のなかば頃であり、当時の日本の女性からすれば相当の上背だった。
嫁いできておよそ十年、歳月を経るほどに美しくなる、と老人はいう。化粧や立ち居振る舞いがみょうに派手に見えたのが、いまではしっとりと落ち着いた妙齢の主婦となって、以前の踊り子臭い感じはない、と老人は手放しの喜びようである。
颯子が良家の奥様然としているのを老人は讃えているけれど、うれしいことに足だけは隠せない。颯子の足はなんといってもダンサーの足で「颯子ノ足ハ柳鰈ノヤウニ華奢デ細長イ」。やなぎがれいのような足をさわり、しゃぶり、その足で身体を、顔を踏んづけてもらいたい・・・・・・性機能は果たせなくなっても老人の性は尽きるところを知らない。
颯子のモデルについて、中公文庫版『瘋癲老人日記』に収める千葉俊二「『瘋癲老人日記』の舞台裏」には「颯子という女性像は、千萬子さんをベースに、当時谷崎の周辺にあったお気に入りの複数の女性たちのイメージが合成されたものだった」とある。千萬子さんというのは渡辺千萬子さん、つまり谷崎潤一郎夫人松子さんと前夫のあいだの実子である渡辺清治氏の夫人である。
小説の老人が颯子に寄せる思いと見まがうほどに谷崎は千萬子さんを気に入っていたから千萬子さんが颯子のモデル、とする説がある。ただし、彼女の挙止や生活感覚が小説に採り入れられているとしてもモデルといったのでは正確を欠くだろう。颯子はNDTでダンサーをしていたとの設定だが、千萬子さんが結婚したのは一九五一年(昭和二十六年)五月、当時二十一歳、同志社大学英文科の学生だった。千萬子さんが颯子のイメージに強くはたらきかけた一面はあっただろうが、「千萬子さんをベース」にとまで言えるかどうかはわからない。
伊吹和子『われよりほかに』には颯子について「当時の日劇でその名を謳われ、先生も大のお気に入りであった春川ますみさんや、新進の女優であった炎加世子(中略)といった人々が意識されていたと思われる」との記述があり「当時谷崎の周辺にあったお気に入りの複数の女性」の一端を明らかにしている。もちろん谷崎のなかには渡辺千萬子さんのイメージも強くあった。それに淡路恵子も脳裡にあったのかもしれない。これらの人々が「合成」されて生まれたのが颯子だった。

いまわたしが手にしている中央公論社の『瘋癲老人日記』の装幀と挿絵(版画)は棟方志功が担当している。小説と版画の大家による素敵な書物である。
作家のほうは日劇ミュージックホールのダンサーでのちに女優となった春川ますみを、彼女のために作品を書くまでに大の贔屓にしていた。版画家はおなじく東劇バーレスク日劇ミュージックホールの舞台に立ったジプシー・ローズを「神様のような肉体」と褒め讃え、彼女の肉体を板に彫りつけようと楽屋に通い詰めた。作家が「柳鰈ノヤウニ華奢デ細長イ」颯子の足を讃えると、版画家が板に彫る。中公版『瘋癲老人日記』は老いてなお女体への憧憬止まぬお二人の老人によるコラボレーションの賜物だった。


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七月二十七日。「瘋癲老人日記」読了。小説の督助老人は明治十六年生まれだ。いま喜寿を迎えて、ものごころついた頃の母を回想し、颯子のいまに眼を遣り、日本の女性の変化に感に堪えなくなる場面がある。
老人は思う。母は美人だったし、美しい足をしていた。だが母と颯子の二人の美女のあいだ、すなわち明治二十七年と昭和三十五年のあいだに日本人の体格、スタイルは大きく変わった。母も美しい足をしていたが颯子の足を見ると、その美しさが全然違う。おなじ日本人の足とは思われないほどだ。くわえて化粧、装飾品の効果がある。
〈髪ヲパーマネントニシ、耳ニイヤリングヲ下ゲ、唇ヲコーラル・ピンクダノパール・ピンクダノコーヒー・ブラウンダノニ塗リ、眉ニ黛、瞼ニアイ・シャドウヲ着ケ、フオールス・アイラツシユデ附ケ睫ヲ着ケ、ソレデモ足リナイデマスカラーデ睫ヲ長ク見セヨウトスル。昼間ハダーク・ブラウンノ鉛筆デ、夜ハ墨ニアイ・シャドウヲ交ゼテ目張リヲスル。爪ノ化粧モコノ伝デ、詳細ニ書イタラソノ煩ニ堪ヘナイ。同ジ日本人ノ女ガ六十余年ノ歳月ノ間に斯クモ変遷スルモノデアラウカ。〉

谷崎潤一郎がこう書いてはやくも半世紀の歳月が経過した。街を往来する女性の化粧もネイルアートの技術もたいへんな発達ぶりだ。それに颯子さんくらいの身長の女性はべつにめずらしくもなく、谷崎在世ならば〈何ト云フ隔タリガ生ジタコトカ〉の二乗以上の驚きとなるだろう。
督助老人は自分の妻子を犠牲にしても息子の嫁颯子に「イヂメラレルノヲ楽シミ」にしているというくらいの自己認識はある。とすればワカッチャイルケドヤメラレナイというのが瘋癲老人の第一症状である。しかし自己認識力がいつも具わっているとは限らない。そこで第二症状として自己認識能力の衰えがある。日記は書けても真実定かならずの内容になってゆかざるをえない。ここに「瘋癲老人日記」の虚実皮膜の複雑さや苦さがある。
たしかなのは、卯木督助老人には情欲が常に必要であって、それがこの老人の命を支えているという作中の精神科医の言葉であろうか。
いまのところわたしという還暦老人に瘋癲すなわち「錯乱や感情の激発などのはなはだしい精神病(の人)」(新明解国語辞典)の認識はないけれど、この先どうなるかは誰も断言できない。生命維持装置の装着などまっぴら御免のわたしだから、そんなものよりも情欲が命を支えてくれるとすれば、最期まで情欲を抱きつづけていたい。恥ずかしいけれど生き恥のかきついでである。

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八月十日。明治座の七・八月公演へ。五月におさそいがあり、この日のチケットを押さえていただいていた。七・八月のロングラン公演はコロッケ特別公演で第一部が「棟方志功物語」、第二部がコロッケオンステージの構成。

偶然とはいえ「瘋癲老人日記」の映画から原作へ、そして原作本の装丁者と挿絵の版画家を主人公とする舞台へと、なんだかこのひと月たらずは「瘋癲老人日記」で廻っている日々だったような気さえしてきた。
第一部はコロッケ、熊谷真美、赤木春恵左とん平桜木健一佐藤正宏といった芸達者による、棟方志功が版画家として世に出るまでの物語。舞台では小道具として版画作品のレプリカがいくつか用いられていた。二階席や三階席では版画のレプリカはきちんと見えなかったでしょうって?ハハハ、それがこの日リザーブされてあった座席は一階二列目中央だったのですよ。西田敏行氏もお近くにいらした。というわけでうれしさもひとしお。

第二部はノリノリのコロッケショー。森進一の物真似のあとでコロッケ氏いわく、僕が森さんがするように首を振っていると、前のほうの男性の方で、いっしょになって首を振っていらっしゃるお客様がおいでになります、お振りにならなくてよろしいですよ、お疲れになりますから、と。いや、おれはコロッケといっしょになって首を振ってなどいなかったはずだ、くらいは言えても断言する自信はなく、もしかしてコロッケはわたしのことを言っていたのじゃないかしらとの思いもよぎる。瘋癲老人までの道のりは自分が思っているほど長くはないのかもしれない。嗚呼。