再会「泥だらけの純情」

さきごろラピュタ阿佐ヶ谷の日活青春映画特集で「泥だらけの純情」に再会した。映画館で観たのは一九六三年(昭和三十八年)の公開時、小学校六年生以来だからやがて半世紀が経とうとしている。ビデオとはちがいワイド・スクリーンで接するとやはり感慨新たなものがありました。


この年のお正月、当時高校生だった従姉が映画へ行こうよというのでついていったところ、着いた先は日活の封切り館で、上映していたのは「青い山脈」と「花と龍」。主演は前者が吉永小百合、後者が石原裕次郎。日活の人気スターを配したお正月にふさわしい二本立てだった。
「花と龍」は火野葦平原作、北九州の沖仲士の世界を描いた作品で、こちらはそれまでになじんでいた東映チャンバラ映画の延長線にあるアクション映画だったが、いっぽうの「青い山脈」は小学六生にとっては未知との遭遇、はじめての日活青春映画であり、はじめての吉永小百合の映画だった。ほんと、まぶしかった。青春という時期にはまだ足を踏み入れていない年齢ではあったが青春映画のスターとしての吉永小百合に魅力を覚えるくらいにはなっていたのだろう。
おなじ映画を二度観ようと思ったのはこのときがはじめてだった。とはいえ小学生の小遣いではすぐには叶わず、おまけに世間には日活作品は不良の映画といったイメージがあったりしたので親には言い出しかねた。ついでながらビートルズが来日したのが一九六六年。このときも、ビートルズにかぶれるような者は不良だとなじる大人がけっこういた。当時は法律に触れる非行の前段に不良というのがあって、世間の頑迷な大人はここのところであれこれ難詰しておりました。




ある日、なにかの具合で小遣いがたまっていたのだろう、親には内緒で吉永小百合の映画に行こうと決意した。ひとりで東映のチャンバラ映画へ行っていたから日活のほうも文句なく承知してくれたかもしれなかったが、難癖でもつけられると一大事で、こうしてひそかに行ったのが「泥だらけの純情」だった。正確には吉永小百合の映画に行ったところ、たまたま上映されていたのが「泥だらけの純情」だった。
吉永小百合の真美は父親が在アルジェリアの外交官、深窓の令嬢だ。彼女が街のチンピラに絡まれているのを下っ端やくざの浜田光夫の次郎が助けたことで知り合い、やがて惹かれ合うようになる。真美と次郎の棲む世界はあまりにもかけ離れており、おのずと交際は周囲の眼をはばかるものとならざるをえなかったが、ことは次第に露見してゆく。そうしたなか、母親(細川ちか子)から父の任地で生活するように言われ、追いつめられた真美は家出して次郎に会いに行く。次郎のほうも兄貴分の若頭(小池朝雄が好演!)から、組のため恐喝事件をひっかぶって警察に出頭するよう言い含められていた。別れたくなければ逃亡するほかない。真美を捜す警察、次郎を追う組員の眼を避けて二人は雪山に逃れる。




明朗な学園ものである「青い山脈」と「泥だらけの純情」は好一対をなす作品で、前者は吉永小百合の生彩快活という面を、後者は悲劇の恋に殉じる彼女の一途さ、ひたむきさをそれぞれ十二分に引き出していた。その後の吉永小百合という女優の軌跡をたどってみても彼女の魅力は生彩快活とひたむきさにあると思う。後年の作品では生彩快活という点で「女ざかり」、ひたむきさで「時雨の記」が印象深い。
女優のフィルモグラフィーでたしかめると一九六三年はお正月第一弾が「青い山脈」、第二弾が「いつでも夢を」、二月が「泥だらけの純情」とつづく。もっと間があったような気がしていたのですが、「青い山脈」からひと月余りで親に隠れて映画へ行くほどにわたしは人間的な成長を遂げていたんです。真美と次郎のはじめてのデートの場面で、真美が「母に初めてついた嘘ですから、誰にも言わずにしまっておきたいんです」と告げる。それを観ているわたしもはじめての秘めごと映画体験なのでした。
のちに「泥だらけの純情」は山口百恵三浦友和でリメイクされる。ほかに吉永小百合の役を山口百恵が演じた作品に「伊豆の踊子」と「潮騒」がある。リメイク作かどうかは関係なく、百恵、友和コンビの映画で「泥だらけの純情」だけはいまもって観ようという気持にならない。秘かな心震える体験を大切にしたい気持がなにほどか作用しているのだろう。
話をすこし遠回りさせます。「潮騒」の作者三島由紀夫旧制高校を戦時特例で短縮して卒業したのは一九四四年(昭和十九年)初冬だった。十九歳、大学生になったばかりの三島にはいつ赤紙が届いてもおかしくはなかったし、彼自身覚悟もしていた。こんな時期に小説集『花ざかりの森』の出版が実現することとなった。思いがけないよろこびだった。父親は息子の文学熱に終始一貫反対していたが、兵隊にとられて死んでしまうかもしれぬ息子を不憫に思ったのだろう許可をあたえた。
「私は何よりも、自分の短い一生に、この世へ残す形見が出来たことを喜んだ」と三島は述懐している。
戦争中のこととて用紙もままならないなかで七丈書院から四千部が刊行され、当時上野池之端にあった雨月荘で出版記念会が開かれた。学習院の清水文雄教授をはじめとする三島の学習院時代の恩師、装幀にあたった徳川義恭、出版にあたって奔走した富士正晴、三島が参加していた同人誌「文藝文化」の同人が出席し、三島と母親が主人役をつとめた。
この夜の記念会をのちに三島はつぎのように回想している。
「灯下管制のきびしい冬の夜、奥まった雨月荘の一室で、灯火に先輩知友にはげまされた一夕の思い出があまり美しいから、私にはその後、あらゆる出版記念会はこれに比べればニセモノだと思われ、私のために催してくれるという会を一切固辞して、今日に及んでいるくらいである」。
自分を三島になぞらえるものではないけれど、しかしリメイク版「泥だらけの純情」への気持を考えあわせてみて、わたしは三島の出版記念会を固辞する思いがすこしは理解できたような気がする。

日活時代の吉永小百合主演作品のうち私的ベスト・スリーは「キューポラのある町」「青い山脈」「泥だらけの純情」となる。あのお正月の「青い山脈」から二十年後の一九八三年(昭和五十八年)に和田誠の監修で『吉永小百合・美しい暦』(芳賀書店)と題したアルバム集が刊行された。そこに「昨日・今日・明日」というインタビューが収められていて、彼女はインタビュアーの和田誠に日活時代の好きな作品として「泥だらけの純情」と「伊豆の踊子」を挙げている。この記事を読んだときは、親に隠れて「泥だらけの純情」に行ってほんとによかったと思った。小学生の身で「青い山脈」や「泥だらけの純情」を封切時に観られたのは振り返ると思いがけないしあわせだった。 

しかしこんなことをしていては学力は伸びない(ほんとうはこんなことしていなくても伸びなかったのだけれど、行きがかりでこう書いておきます)。もともと成績のよくないところへもってきて勉強より数段強く映画に意識が向いたのだから、某私立中学を受験したものの受かるはずもなかった。そんなある日、本屋さんでふと眼を遣った文庫本の棚に『青い山脈』という背表紙が見えた。そうか、あの映画には原作があったのだ。すこし逡巡したあと文庫本を買い、帰宅して石坂洋次郎という人が書いた『青い山脈』を一気に読んだ。はじめて手にした文庫本でちょっぴり大人に近づいた気がした。映画とおなじく原作も明るくさわやかな作品だった。すぐに二回目を読みはじめ今度は映画と原作の違いに注意しながら読んでみた。そうこうしているうちに吉永小百合の映画には石坂洋次郎の小説を原作としているものがけっこうあると知った。「若い人」「雨の中に消えて」「美しい暦」「光る海」「風と樹と空と」、主題歌「寒い朝」が大ヒットした「赤い蕾と白い花」、いずれも石坂洋次郎原作でさいわい多くが文庫化されており、こうしてときどきは文庫本を手にするようになった。
入試は不合格となってしまったけれど、他方で映画と読書の愉しさを覚えた。禍福はあざなえる縄の如しというが、振り返ると福のほうが勝っているのではないかな。中学、高校と理数系の教科にはずいぶんと手こずったが、ちょいとばかし本を読んでいるうちに漢字の読みとか年表的なことがらはおのずと頭の中に納まったようで国語や社会は平均点くらいならさほど苦労はしなかった。
だからだろうときどき吉永小百合さんが恩人に見えるときがあったりする。