瞬間日記抄(其ノ十五)

某日。時代の趨勢にうとく、角田光代の原作も、評判のテレビドラマも知らず、映画化で話題となりはじめて知った「八日目の蝉」を観る。希和子(永作博美)は、不倫相手の正妻が生んだ子供を誘拐し四年間育てた。小豆島で「母」が逮捕され「娘」の恵理菜(井上真央)は四歳で初めて実の両親に会った。                    
私たちこそが正真正銘の家族だと言われても四歳までの過去が消えるものではない。恵理菜は家族にとけ込めず、心を閉ざしている。世間の中傷もあった。家族は疲弊し、二十一歳の恵理菜は家を出て一人暮らしを始める。彼女も妻子ある男性と不倫の関係に陥り、やがて妊娠する。
恵理菜のバイト先にルポライターの安藤千草(小池栄子)が訪ねてくる。千草は誘拐事件を本にしたいという。恵理菜は避けようとするが、なぜか彼女とは共感を覚えるところがあった。恵理菜は千草に励まされ希和子との逃亡生活をたどり直す旅に出、やがて最終の地となった小豆島に降り立った。


希和子と恵理菜(逃亡中は薫の名前)の逃亡生活。逮捕され、保護された「母」と「娘」のその後。千草が恵理菜に取材する理由。希和子は男、つまり恵理菜の父の希望で中絶し子供の産めない身体となった。恵理菜は不倫のもつれと妊娠をどうするのか。重層した疑問の行方、ストーリーの展開に眼を離せない。
この作品は根っこのところで人間の不可解さを正面に据えたという意味でのミステリと言えるのではないか。脚本(奥寺佐渡子)も監督(成島出)もこの不可解から逃げていない。(推し量るにたぶん原作も)。人間の不可解さに犯人はなく解決もない。その代わり、この映画には恵理菜の再生と希望がある。


某日。常盤新平『銀座旅日記』(ちくま文庫)に、髭剃りは何を以てしても「ジレット三枚刃には敵わない」とあった。髭を剃るのに何を用いるかは男の難問の一つだ。小生、某社の電動とありきたりの手動髭剃りを使っているのだが、電動はもともと好きではなく、ちょうど部品交換の必要が生じていた。
寡聞にしてジレットを知らず、さっそく買いに走った。試してみたところこれがまことによい。「刃のあたりがジレットはやわらかで、剃りごこちがよい」(『銀座旅日記』)とあるのを実感した。おなじ日記にはトーストに焼海苔をつけて食う、これが意外に合うとの記述も。こちらも試してみることとする。





『銀座旅日記』の著者の訳業ではアーウィン・ショーの短編集が好きだ。なかでもニューヨークの五番街を行く美しい女たちを見て心浮き立つマイクルとその姿に軽い嫉妬を覚える妻のフランセスの小さないさかいを描いた小粋でおしゃれな名篇「夏服を着た女たち」は忘れがたい。
夏服を着た女たち」のマイクルは言う。オフィスで働く女が好きだ、昼飯どきの四十四丁目の女たちも、メーシー百貨店の売り子も。十分に支度して劇場に来た女たちの近くにすわるのが好きだ、フットボールの試合を見に来る赤いほっぺの若い女たち、そして陽気がよくなると、夏服を着た女たち。

街を行き交う女性に目移りするマイクルに妻のフランセスは軽い嫉妬をおぼえてしまう。三十代の夫婦にさざ波が立つ。小さな口論のあとフランセスが電話をかけに行く。マイクルはそのうしろ姿を見て、あらためてわが妻に惚れ直す。なんてかわいらしい女なんだろう、なんて素敵な脚だろう、と。