同姓同名のはなし

ときどきまちがい電話がかかってくることがあって、電話帳を繰ってみたところ、姓も名も字もすべておなじ方がいらした。こちらが所属というか職場を口にしてはじめて電話の相手に御納得いただけたこともあった。先方でも同様だっただろう。同姓同名が二人ならまだしも、三人とか四人だったらややこしいでしょうねえ。
同姓の方と職場をともにした時期があり、ときに外部からの電話で行き違いがあった。本屋さんの請求書がまちがって回されて来たこともあったが、先方は理工系、当方は文系なので、お互い事情はすぐにわかった。
 さらに、あちらの息女とわが家の娘がおなじ名前で、歳も一つか二つのちがいだった。父親の職場がいっしょだった頃は小学生で何もなかったのが、親は別の職場になり、彼女たちが高校生になって混線が生じた。わたしが電話を取り次いだところ、話が合わず、先方のお嬢さんにかかってきた電話で、これに類することが何回かあった。
いずれも携帯電話のなかった頃のはなしである。


同姓同名を理由に改名させられた映画俳優に藤原釜足(1905-1985)がいる。出演作は数多く、よく知られた役柄のひとつに「七人の侍」の万造役がある。侍を探しに町へ出る百姓の一人で、いざ侍が村にやって来ると、心配性から娘の志乃(津島恵子)の髪を切って男装させた。
隠し砦の三悪人」の冒頭で太平(千秋実)とともに黄金を発見する又七役も有名で、この太平と又七がのちに「スターウォーズ」のC-3POR2-D2のモデルとなった。
この人、榎本健一に誘われカジノ・フォーリーに参加した際に藤原秀臣を名乗ったが、その後、詩人のサトウ・ハチローから、秀でた家臣となれば中大兄皇子に仕えた藤原鎌足だと言われて藤原釜足と改名した。

ところが戦時色が濃くなった一九四0年(昭和十五年)に、内務省から、大化の改新藤原鎌足を茶化し、冒涜していると指摘を受け、藤原鶏太と改名した。「けいた」は「けえた(変えた)」をもじった名前で、戦後は元に戻している。
蛇足ながら、改名させられたのは、やんごとない方面の歴史上の人物と漢字一字ちがいだった藤原釜足ばかりではなく、カタカナ名前の芸名が敵国民の名前を連想させるとしてミス・ワカナ、ミス・コロンビア、ディック・ミネといった人たちも同様の措置を受けた。こんなことしてちゃ、戦争には勝てません。

藤原鎌足藤原釜足はずいぶんと時代が離れているが、わが日本史上、同姓同名の同時代人としてよく知られているのは洋画家の鈴木信太郎(1895-1989)とフランス文学者の鈴木信太郎(1895-1970)のばあいだろう。

 

(画家・鈴木信太郎)                    (フランス文学者・鈴木信太郎

 

 







一方は先日の当ブログ「一枚の絵」で話題にした「東京の空(数寄屋橋附近)」を描いた洋画家の鈴木信太郎
他方、フランス文学者の鈴木信太郎フランソワ・ヴィヨンマラルメの研究者であり、東大仏文科教授として多くの後進を育てた。
画家とフランス文学者は生年もおなじという事情もありよくまちがわれた。仏文学者の鈴木に「同名異人の話」という面白いエッセイがある。昭和十四年七月「中央公論」所載の同文によると早くも中学生の頃、雑誌「中学世界」の口絵に、のちに画家となった鈴木信太郎の水彩画が入賞し、のちに学者となった鈴木信太郎の友人たちはそれを見て、てっきり彼の絵と誤解した。というのはこちらの鈴木信太郎も絵が好きで、同級の高畠達四郎とよく郊外にスケッチに出かけていたから、友人の思い込みは根拠がないものではなかった。
雑誌「中学世界」を飾った少年はやがて成長して二科展に油絵が展示されるようになった。もう一人は東京帝大の先生、フランス文学者である。二科の展覧会を見て、君はたいした隠し芸を持っているなあ、と声をかけてきた友人もいた。おまけにこの学者は中学生だった頃のエピソードから窺われるように、絵画に親しみ、やがて現代美術の批評を書いたりもしたから混線の具合は増幅した。
ところで、画家のほうも時折随筆を書く。ここでも、学者の鈴木が書いたものとまちがわれることがあり、学者の師友のほうでも画家の随筆を学者の鈴木が書いたものと取り違えていたという。
学者のもとに新聞社から大金が送られて来ると画家にあわてて転送しなければならず、反対に、画家からはフランス文学についての原稿依頼状が転送されて来た。
 あるとき、偶然に二人の鈴木信太郎は対面した。このときの気持を、フランス文学者は「ぴつたりと合はない靴のやうな、印刷のずれた三色版のやうな、何となく淋しい感情である」と述べている。

もしも画家が学者の肖像画を描くとなれば、ずいぶん難渋しただろう。仏文学者の 「同名異人の話」からの推測で、学者にとって同姓同名の画家が「ぴつたりと合はない靴のやう」だったとすれば、画伯にとってもこのフランス文学者は、まことに焦点の合わせにくい人物だったとのではないかと思われる。