瞬間日記抄(其ノ十二)

「身分が下と見れば冷たくあしらった。使用人を邪険に扱い、秘書を見下した。任に就いた官庁の各機関では、配下の役人に恐れられ、嫌われた。すさまじい傲慢ぶりなのだ。大方の関係者とは比較にならないくらい頭がよいと思っており、それをわからせずにはいなかった。」
「天性の指揮官を自任し、意見を具申する輩、決定の理由をせがむ輩にはいらいらした。底なしの身勝手である。人のために何かをするのが務めだとは思いもしない。敵は多いが、歯牙にも掛けなかった。力添えや慰め、憐れみを与えてやれる人間を持たない。傲岸不遜ゆえに党内での人気はない。」


いずれもサマセット・モーム「マウントドレイゴ卿」(光文社古典新訳文庫、木村政則訳)より。最近新聞でどこかの国の首相についておなじ内容の記事を見たことから付箋を貼っておいた。報道の真偽の程度はともかく、モームは新聞記事を剽窃したのではと錯覚しかけたが、小説は1939年に公表されている。
マウントドレイゴ卿は保守党政権の外務大臣である。これでは不信任や問責決議もありだろうと思うのだが「存在価値は高く、愛国心は明白で頭脳は確か、諸事の処理は抜群ときているので大目に見てもらえた。」幸か不幸かこの箇所は新聞にはなかった。
卿は政敵の政治生命をつぶしたはずだった。相手は労働党が政権を担当すれば外相になると目されている議員だ。卿から見れば粗野で下品で能力が低い。ある日、議会の討論で木っ端微塵に粉砕してやった。おなじ労働党の議員からも嘲笑が洩れるほどの完勝だった。



ところがそれから毎夜、夢に相手が現れ執念深く食い下がる。しかも議会で顔を合わしたところ、卿の眼に相手もおなじ夢を見ていると映りはじめる。マウントドレイゴ卿と政敵の行く末は読んでからのおたのしみ。象徴的な結末で、どこかの国の首相とあの政敵もこんなふうになるのじゃないかしら。


フランソワ・トリュフォー監督「終電車」。ナチス占領下のパリのキャバレーで「素敵なあなた」がフランス語で歌われている。米国のユダヤ人が作ったイディッシュ語の歌で、作詞ジェイコブ・ジェイコブス、作曲ショーロム・セクンダ。ジョーン・バエズの歌った「ドナ・ドナ」もおなじ作曲者だ。
占領下パリのキャバレーには多くのナチス軍人が客として来ている。そこで「素敵なあなた」というユダヤ系の歌がうたわれているのは立派なレジスタンスだ。ひょっとしてナチスの軍人もこの曲の魅力に抗し難かったのでは。
「素敵なあなた」が流れているキャバレーのクロークにはナチスの軍帽がたくさん預けられている。レジスタンス側のベルナール・グランジェ(ジェラール・ドパルデュー)はその様子を見て嫌悪感から立ち去ったが、ユダヤ人の手になる歌をうたっている、その意味合いを理解していたのだろうか。





終電車」のフランス語「素敵なあなた」、CDになっていれば欲しいなあ。アンドリュー・シスターズ、ベニー・グッドマン・オーケストラ及びスモールコンボとマーサ・ティルトンとの共演盤、「上海バンスキング」の吉田日出子・・・。「素敵なあなた」をとっかえひっかえ聴いているアフターダーク