ミリー・ヴァーノン「イントロデューシング」

水羊羹はどんなにおいしくても我慢して一度にひとつだけ。お茶は香りの高い新茶を丁寧に入れて、すだれ越しの自然光か、せめて昔風の、少し黄色っぽい電灯の下、クーラーではなく、窓をあけて、自然の空気、自然の中で味わいたい。
向田邦子は水羊羹をいただくときの心得をこんなふうに説いた。なんだか『枕草子』の趣がありますね。素朴なゆたかさといったたたずまいは想像するだけでもよい気持になります。
くわえて、水羊羹に似合いのムード・ミュージックとして挙げられているのがミリー・ヴァーノンの「スプリング・イズ・ヒア」。「イントロデューシング」というアルバムに収める一曲だ。

ミリー・ヴァーノンについては「一九五0年代に、たった一枚のレコードを残して、それ以来、生きているのか死んだのか全く消息の判らない美人の歌手ですが、冷たいような甘いような、けだるいような、なまぬくいような歌は、水羊羹にピッタリに思えます」と書いている。
ネット上での諸賢の調査によると、ほかに若干のレコードを出しているそうだが、いずれにしてもひっそりとした存在の歌手だった。
作家が人知れず愛聴した一枚のレコードをそっと告げたことで、このアルバムは向田邦子の愛読者のみならずジャズ・ボーカルファンの「幻の一枚」「垂涎の一枚」となった。現在はCD化されて発売されているので全然幻ではありません。もっともオリジナルの紙ジャケットのLPとなると高価なんだろうけど。
わたしはそんな事情はまったく知らずに、三年ほど前、たまたまオビに向田邦子の愛したアルバムと書かれたCDを公共図書館の棚に見つけて、さっそくホクホクと借りてきたのだったが、彼女が何というエッセイでこのアルバムに触れているのかがわからず、そこのところが気になっていた。
さいきん野村麻里・編『作家の別腹』(光文社知恵の森文庫)というアンソロジーをめくっていると、向田邦子「水羊羹」というエッセイがあり、ここでミリー・ヴァーノンに触れていると知った。出典は『眠る盃』。文庫にもなっている(講談社文庫)ので、ファンからは何をいまさらといわれそうだけれど、こちらとしてはちょっぴり気がかりだったことが判明して嬉しい。
ミリー・ヴァーノンはいずれもスローもしくはミディアム・テンポの曲を素直に淡々と歌っている。中音域がゆたかな声だ。十二曲のうちいちばんのマイ・フェイバリットは「ムーン・レイ」。
落ち着きのある、しっとりとしたボーカルにデイヴ・マッケンナ(p)やルビー・ブラフ(tp)といった渋めのミュージシャンがバックを務めているのがいかにもという感じだ。

向田さんの蘊蓄に感謝して水羊羹を味わってみよう。自然の光、自然の空気のなかで「スプリング・イズ・ヒア」を聴きながら。折しも新茶の季節だ。