映画「墨東綺譚」余話(其ノ三)〜玉の井と亀戸

新藤版『濹東綺譚』の見どころのひとつに細道の多い尾道につくられた玉の井のロケセットがある。監督は、このセットについて、玉の井の町を徹底的に考証して再現に努めたと述べ、復元にあたっての三つの要素として、荷風の文章と木村荘八の挿絵と監督自身の記憶を挙げた。(『『断腸亭日乗』を読む』)

 

小説『濹東綺譚』は昭和十二年四月十六日から六月十四日まで朝日新聞紙上に三十五回にわたり連載された。挿絵を担当したのは木村荘八で、小説とともに挿絵も大きな評判を呼んだ。荷風は話題が挿絵に及ぶのをいやがったという。作者が嫉妬するほどの挿絵だった。
 
 木村荘八は「濹東挿絵余談」と題する随筆を「改造」昭和十二年七月号に発表し、のちこれに「附記」をくわえ「濹東雑話ー『濹東綺譚』挿絵余談」として自身の著書『東京繁昌記』に収めた。

ここには、新聞掲載予定の全篇原稿を百回以上読んだであろう木村荘八の妻が、毎日、昼間に玉の井に出かけ実地踏査をし、その報告をもとに画家は夜分に挿絵を仕上げたことが述べられている。
また、玉の井という土地は私娼の町としてさかんな発展をしたぶん、変化の度合が大きく、それに反して亀戸(木村は亀井戸と表記)には昔のものがそのままにあり、そこの情景をずいぶんと参考にしたとある。

「日本三文オペラ」や「銀座八丁」の小説家武田麟太郎は「野暮なことを言い出せば、あの玉の井は嘘」「序でに憎まれ口を叩けば、荘八氏の玉の井もちがう。あの絵の銘酒屋内部や女の放つ空気は、亀戸のものであった」といっていたことが、安田武『昭和青春読書私史』に見えている。武田によると、挿絵の玉の井木村荘八が述べた以上に亀戸そのもの、小説の舞台だって亀戸なのだった。

これについては、野口冨士男が『わが荷風』において「実際の玉の井より古風だとか、鄙びているというほどの意味」と限定的に解釈しているが、その野口にしても玉の井では遊んだが亀戸の体験はなく武田の言説の当否に容喙する資格をもたないという。
 
 『昭和青春読書私史』には、挿絵に亀戸の情景がおおく採り入れられた事情について、著者の安田武講談社版『木村荘八全集』の担当編集者から聞いた話として次のことが記されている。
それは新聞連載に先立ち木村荘八玉の井へスケッチに出向いたところ、ここを縄張りとする地回りに因縁をつけられ、身に危険を感じてやむなく処を亀戸に移して描いたというもので、連載が評判を呼ぶにつれ玉の井の業者組合は歓迎に廻り、地回りとの関係も円満に決着したという。>木村荘八の妻が玉の井に出かけて観察した光景を夫に報告していたのもこの地回りとの関係があり、木村は出かけようにも出かけられなかったと考えられる。 
安田武は、亀戸ではよく遊んだが玉の井経験はなく、それなのに玉の井の私娼窟、荷風のいう「迷宮」(ラビラント)をさまよいあるいた記憶があるような気がしてならない、という。それだけ挿絵の玉の井は亀戸の雰囲気を湛えているのかもしれない。
新聞連載がはじまった昭和十二年四月といえばのちの評論家安田武は、まだ中学二年に進級したばかりで、狭斜の巷に出向くはずもなかった。自身の記憶のなかの未体験の玉の井については、毎夕の新聞の配達を待侘びて『濹東綺譚』を熟読し、木村荘八の挿絵にも深く親しみ、その後、亀戸通いを重ねたために、玉の井の陋巷がいつか見た風景となって抜きがたくなったと分析している。
おなじ私娼窟として、玉の井も亀戸もさしたるちがいはないのではないかとも考えられるが、どちらの体験もないわたしが口出しできようはずもない。
『濹東綺譚』の挿絵になにほどか亀戸の情景が取り入れられていた。そうであれば映画のセットにもかつての亀戸を偲ばせるものが潜んでいるはずだ。新藤監督の記憶にも亀戸での経験が混じっているのかもしれない。

 

野口冨士男は『わが荷風』で自身の玉の井体験をこんなふうに回想している。
〈「ぬけられます」とか「完全通路」と標示された、両側または片側だけに娼家の建ちならんでいる狭隘きわまる路地から路地をつたい歩くと、行けども行けども異臭の絶えることがなかった。したがって、その異臭は溝の臭気であるはずがなく、私などは目ばかり窓とよばれた小窓の中から「ちょいと、ちょいと」とよびかけるオンナたちの声をききながら、その屎尿と洗滌液が混じ合ってはなつ、鼻よりは眼にしみるような刺痛感のある猥雑な異臭をかぐたびに、自身がいま魔窟へ来ているのだという若干の後ろめたさとある種の昂奮がまざり合った実感をおぼえさせられたものであった。逆にいえば、溝の臭気より汚物のほうがはるかに強く当時の実感としてのこっている。〉 
これを読む限りでは不潔感漂う玉の井で、じっさいそこは新橋、神楽坂、富士見町、白山、麻布の花柳界はもとより吉原や洲崎ともまったく質の異なる「最低の遊び場」だった。
けれど荷風はこの玉の井の陋巷を「迷宮」(ラビラント)とよんで、魔窟としなかった。それは読者の幻滅をおそれた荷風の詩人的配慮だったと野口冨士男はいう。
おなじく木村荘八の挿絵に玉の井と亀戸の成分がどれほどの割合で併存していたとしても画家はここを「迷宮」(ラビラント)として描いた。そこのところで荷風と木村の思いは通じ合っている。「濹東綺譚」のセットにはそれらのことがらが織り込まれている。