映画「墨東綺譚」余話(其ノ二)〜オペラ館のこと

玉の井の娼婦お雪は永井というお客が回数を重ねてやって来るうちに、親しみを覚えるようになるが、男は自分について、年齢や職業さえまったく口にしない。その言動からエロ写真の販売をなりわいとしていると推し量ったが、何にせよ自分とおなじ裏街道に棲む人間なのだと彼女が永井さんに抱く仲間意識にやがて愛情が忍び寄る。
ある日、お雪は「ねえ、あなたのお嫁さんにしてくれない」と言ったところで二人の関係は揺らぎ、永井さんの足は玉の井から遠のいた。
映画ではお雪への未練の断ちがたい気持を抱いていた荷風が描かれているけれど、小説には、再会の望みのないことを初めから知りぬいていた別離の情は叙しがたいとある。得手勝手な話であるが、荷風は、素人の女に迷惑をかけてはならぬが、玄人のばあいはこういうのもありだと考えていた。
そんななか荷風のオペラ館への出入りがはじまり、楽屋の踊り子の姿に眼福を得るようになった。オペラ館は浅草にある軽演劇とレビューの劇場で、作曲家「阿部某」が騒ぎを起こしたのもこの小屋だった。 オペラ館の座員の技芸について荷風は、関東大震災前の帝国劇場の歌劇部と比較してさしたる進歩はないと断じているが、おなじものであっても浅草という場におくとちがった感懐を覚えた。
〈丸の内にて不快に思はるゝものも浅草に来りて無智の群集と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。〉(昭和十二年十一月十六日)  外出時にはカメラを携行していた荷風は、昭和十三年に岩波書店から刊行された作品集『おもかげ』に自身が撮った当時の劇場風景の写真を載せている。

オペラ館の舞台がはねてのちの深夜一時頃、浅草のハトヤ茶店で出演者たちがたむろしているところへ荷風は行き会ったことがある。
〈オペラ館男女の芸人七八人在り。皆近巷に住むものゝ如くジャムトーストを携へかへる女優もあり。人をして可憐の思をなさしむ。〉(昭和十二年十二月二十三日)
 震災前の帝国劇場の女優を知る荷風の眼に、浅草の踊り子の姿は質朴で好感ある姿と映った。
やがて戦局困難のうちにオペラ館は当局より取り払いを指示され、昭和十九年三月三十一日に最終興行日を迎えた。その日、荷風はこの劇場での日々を回想し感慨にふけった。
〈回顧するに余の始めてこの楽屋に入込み踊子の裸になりて衣装着かふるさまを見てよろこびしは昭和十二年の暮なれば早くも七年の歳月を経たり。(中略)余は六十になりし時偶然この別天地を発見し或時は殆ど毎日来り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。〉


これに荷風流文明批評がつづく。
〈オペラ館楽屋の人々は或は無智朴訥。或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社会の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず〉
のちに荷風が作曲家菅原明朗とその妻で歌手の永井智子(作家永井路子さんの母堂)とともに岡山に疎開したのもオペラ館での縁からだった。
荷風に「勲章」という小説がある。「踊子」などとともに戦中に執筆しながら発表の場を得られないまま戦後になってやっと公表できた作品だ。新藤版 「濹東綺譚」にはこの「勲章」のエピソードが取り入れられているのがうれしい。

オペラ館の楽屋で荷風が踊り子たちと写真を撮っているところへ弁当の出前持ちの老人がやって来る。老人は荷風のカメラを見て、よかったら自分の写真もお願いしたいと頼むと荷風はこころよく応じてやる。
すると老人は日露戦争でもらったものだと言いつつ勲章を取りだし、楽屋に掛かっている芝居用の軍服を着るとその勲章を付け、踊り子とともに写真を撮ってもらう。老人の片足は義足で、彼は、勲章はこの足と引き換えだったんだよとその由来を踊り子たちに説くのだった。浜村純が扮した老人は、およそこの人以外には考えられないといった感じでぴたりとはまっている。
 

そのいっぽうで荷風や老人を取り巻くオペラ館の踊り子さんたちがすこしモダン過ぎるというか戦前の匂いに乏しい気がする。

MGMのミュージカル作品にある数々の名場面で構成した「ザッツ・エンタテインメント」でさいしょにナレーターを務めたフランク・シナトラが一九二九年サイレント映画が突然過去のものとなり、音が王座を占めた時にミュージカル映画は誕生した、そしてこの頃のコーラスガールたちのプロポーションはそれほどでもなかったが観客をとりこにした、といったことを語る。戦前の匂いというのはそんなことをも併せての印象で、映画ファンというのは贅沢な欲望を抱いているものであります。