映画「墨東綺譚」余話(其ノ一)〜荷風と流行歌

「濹東綺譚」という映画は二本ある。ひとつは一九六0年の豊田四郎監督作品、山本富士子がお雪を演じた。もう一本は一九九二年の新藤兼人監督作品で、おなじタイトルながら、前者が小説「濹東綺譚」に即した(とはいえラストの改悪はひどいが)ものであるのに対し、後者は小説と荷風の日記『断腸亭日乗』を原作とする永井荷風伝の趣のある作品となっている。今回採り上げるのは後者です。

新藤版「濹東綺譚」は『『断腸亭日乗』を読む』(岩波現代文庫)という荷風にかんする専著もある監督の作品らしく、荷風の生涯をたどりながら、監督自身の「濹東余譚」をくわえてひねりを効かせている。
本作の永井荷風役は津川雅彦、描かれている時代は麻布市兵衛町の偏奇館へ住まいした大正なかばから亡くなる昭和三十四年にかけて。玉の井でお雪(墨田ユキ)と情を交わしたのは小説では大江匡であったが、映画では荷風自身の話として設定し、お雪のほかにも『断腸亭日乗』にある何人かの女性も登場する。
たとえば、関係を重ねるうちにカネを無心するようになり、荷風を困らせたカフェ、タイガーの女給お久(宮崎美子)。やむなく荷風は派出所の巡査に恐喝に遭っていると訴え出て、そのためふたりは警察で説諭されるハメとなる。
 荷風が身請けし待合壺中庵をもたせるなどし、愛人としてはいちばん長く関係が続いた関根歌(瀬尾智美)も登場する。
 黒沢きみ(八神康子)はいろいろな待合に出没する謎の私娼で、荷風をして「閨中秘技絶妙」「稀代の妖婦」と書かしめた。いずれも『断腸亭日乗』の記事と映画とを比較するのも一興だろう。
小説では、大江匡が、わたくしとお雪とは互に本名も住所も知らないままに濹東の裏町、蚊のわめくどぶ際の家で狎れ親しんだばかりで、ひとたび別れてしまえば再会の機会も手段もない間柄だ、と述懐するとおり、まみえることはなかったけれど、映画では敗戦後、浅草寺の境内で、お雪と玉の井の娼家の女主人だった安藤まさ(乙羽信子)が連れだってお寺に向かっていると、寺側からずいぶんと老いた荷風がやって来て、すれちがう。お雪はもしかして永井さんではないかしらと思うが、まさかそんなはずはないだろうと考え直す。いっぽうの荷風はまったく気付かない。
新藤監督の「濹東余譚」である。
  
  もうひとつ余譚としてお雪が抱えられている娼家、安藤まさ宅の養子のことがある。小説にも日記にもない創作上の人物だ。早稲田の学生で、学徒出陣前にお雪の床でてほどきを受け、戦地に赴いて自殺とおぼしき戦死をする。新藤監督はここで反軍色を出して荷風の一面を表現するとともにみずからの思いを込めておきたかったのだろう。
この映画では時代相を示すためにいくつかの流行歌が用いられている。

まず銀座のカフェで荷風と彼が嫌いぬいた仇敵菊池寛とが出くわすシーンで昭和十年の映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」(作詞高橋掬太郎・作曲池田不二男)が流れている。しめっぽい感情を入れない硬質の声がかえって想いをかき立てる関種子の名唱だ。
荷風が浅草を散策するシーンでは渡辺はま子「忘れちゃいやよヨ」」(作詞最上洋・作曲細田義勝)、玉の井では藤山一郎「影を慕いて」(作詞作曲古賀政男)がそれぞれ蓄音機から流れている。そして玉の井の流しに扮した角川博がバイオリンを伴奏に「酒は涙かため息か」(作詞高橋掬太郎・作曲古賀政男)を歌う。
 戦後では並木路子「リンゴの唄」(作詞サトウハチロー・作曲万城目正)と笠置シズ子「東京ブギウギ」(作詞鈴木勝・作曲服部良一)が街頭に流れている。
荷風が浅草の木馬館の前で「忘れちゃいやよ」を口ずさむ場面もある。じっさい荷風はこの歌を口にしていたかどうかは知らない。
 その「忘れちゃいやヨ」は昭和十一年に大ヒットしたものの、内務省から、あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱、エロを満喫させる、と非難を受けた。
流行唄忘れちゃいやよと題するもの蓄音機円板販売禁止。また右の歌うたふ時は巡査注意する由。喫茶店の女より右の唄の文句をきくに甚平凡なるものなり。〉

このあと、しっかりと一番から三番までの歌詞が写されてある。真に風紀を乱しているのは廉恥心なき政治家や軍人政府の暴挙、社会公益に名を借りて私欲を逞しくする偽善の行動であり、それにくらべれば女給やダンサーのひそかな売春など取るに足らぬものと断じた荷風が口ずさむ歌として「忘れちゃいやよ」は似つかわしいと新藤監督は考えたのだろう。
 流行歌をとおして荷風は世情人心を見ようとしていた。歌詞を、それも一番から三番まで記したくらいだから荷風が「忘れちゃいやよ」を口ずさんでいたのではとの推測は可能だ。
いっぽうで、今西営造『演歌に生きた男たち』(中公文庫)という本には、荷風が口ずさんだ流行歌はたったひとつ「裏町人生」だったという記述がある。昭和十四年二月十六日の夕刻、荷風は浅草のオペラ館をおとずれた。すると、ここで昼間に騒ぎがあり、「作曲家阿部某」が所用でオペラ館にやって来たところ、そうと知らない楽屋口の男が阿部を殴って騒動になったという記事が同日の『断腸亭日乗』にある。
 どうってことのない箇所と思いきや、今西前掲書はこの記事を引いて、専門家の慧眼で以て註釈をくわえてくれている。
 それによるとこの「阿部某」は東海林太郎の「国境の町」をはじめ上原敏の「妻恋道中」「流転」「裏町人生」などを作曲した阿部武雄で、昭和十四年といえばすでに歌謡曲の世界では押しも押されもせぬ地位にあった。ただしこの人、放蕩無頼、しばしばズボンを荒縄で結ぶなどの異様な風体をしていた。そのため楽屋口で異様な浮浪者と見られ騒ぎとなったのだろうと著者は推測している。
これにつづけて荷風は辛辣な流行歌批評家であり、流行歌には人なみ以上の関心をもちながらも、人前で歌うことはなかった、その彼が例外的に少し酩酊気分になると、小声で歌う流行歌がたった一つあり、それが「裏町人生」だったとの記述がある。

たぶん荷風は「阿部某」を「裏町人生」の作曲家と知らなかっただろう。自身の口ずさむたったひとつの流行歌の作曲者だと知ればこの日の荷風日記はいますこし趣のちがう記述になっていたかもしれない。なお同歌の作詞は島田磐也。
 

「辛辣な流行歌批評家」かどうかはともかく、荷風は『断腸亭日乗』にときどき皮肉な筆遣いで流行歌に触れている。つぎに引くのは昭和四年六月二十五日の記事。

〈晴れて風涼し、終日三番町に在り、夜お歌を伴ひ銀座を歩む、三丁目の角に蓄音機を売る店あり、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり、この頃都下到処のカツフエーを始め山の手辺の色町いづこと云この唄大に流行す、其他はぶの港君恋し東京行進曲などいふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず、歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、広い東京恋故せまいといふが如きものゝみなり。〉
 
 
それにしても荷風が酩酊気分のとき小声で「裏町人生」を口ずさんでいたとは、わたしには大ニュースでありました。
〈暗い浮世の この裏町を / 覗く冷たい こぼれ陽よ
    なまじかけるな うす情  /  夢もわびしい 夜の花〉 
 
 落魄はいやだけれど、落魄趣味となるとまたべつの話であり、荷風には落魄気分にひたろうとするところがあったから「裏町人生」を小声で歌うのはわかる気はする。ならば口ずさむほどに好んでいたというその典拠になったのはどのような資料だったのか、誰かから聞き及んだのか、あるいは何かの本にあったのか、『演歌に生きた男たち』には示されていない。読者としては気になるところだ。
 

断腸亭日乗』昭和二十三年七月二十一日には櫻むつ子に頼まれて書いた荷風の流行歌詞がある。出来具合は即興の御愛敬といったところ。

〈逢ひたい時は電話でも / かければすぐに逢へるけど
   逢つてしまへばこの次の / 約束した日の待どおしさ〉

東京物語」での櫻むつ子。東野英治郎の沼田三平が、おまえは亡くなった女房によく似とるとくだをまくと、うるさいわねえ、こんなに遅くまで、もう帰ってよというおでん屋のおかみさん。