『深夜の散歩』のおもいで

 
ハヤカワ・ライブラリの一冊として刊行された『深夜の散歩』を眺めている。一九六三年十一月三十一日付け再版で、版型はハヤカワ・ポケット・ミステリとおなじ。一昨年に神保町の小宮山書店のワゴンセールでもとめた。三冊五百円だったから迷いなく即決で、古本屋の均一本をあさるよろこびここにありといった気分だった。


刊行時からずいぶんと時間が経っているからそれなりに古びて、表紙のカバーは破れているけれど本体は大丈夫。ついでながらこのとき購入したあとの二冊をメモで確かめたところ上野千鶴子富岡多恵子小倉千加子『男流文学論』(筑摩書房)と福沢諭吉福翁自伝』や長谷川如是閑『ある心の自叙伝』を収める『世界教養全集』(平凡社)の一冊だった。
『深夜の散歩』は福永武彦中村真一郎丸谷才一の三氏による共著で、海外ミステリをめぐる上質で瀟洒なエッセイ集かつブックガイドとなっており、この分野での古典的名著と評して過言ではないはずだ。
刊行時には一部にミステリに対して冷ややかな視線があったからだろう、丸谷才一はあとがきで〈『日本外史』と『明治天皇御集』以外の印刷物には関心がない〉とか〈「世界」と「アカハタ」以外の定期刊行物は読まない〉といった人にはすこぶる馬鹿ばかしい本となろうが〈探偵小説という娯楽〉を愛する人々にはここにある閑談は純粋なたのしみとなるにちがいないと書いている。昭和三十年代はまだ純文学だけが文学といった意識が強かったから、このあとがきをいま読むと今昔の感に堪えない。
三人の著者はいずれも海外のミステリを知的な娯楽として愉しく論じ、興味深く紹介してくれている。まこと〈先達はあらまほしきことなり〉(『徒然草』第五十二段)で、本書はぼくを海外ミステリの世界に誘ってくれた最初にして最良のあらまほしき先達だった。



もっともはじめて手にしたのはこのハヤカワ・ライブラリ版ではなく一九七八年に講談社から和田誠の素敵な装丁で刊行された『決定版 深夜の散歩』で、ここには元版以降に書かれた三人の著者のミステリについてのエッセイがそれぞれ数編収録されている。「決定版」とされた所以である。

あの頃ぼくはこの「決定版」を開いては、採り上げられている作品にボールペンで傍線を引き、そこから天地に引出線を伸ばし、ハヤカワ文庫や同ポケット・ミステリ、創元文庫の目録でたしかめては訳本の版元を書き込んでいた。アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』はハヤカワ文庫、アントニィ・バークリイ『毒入りチョコレート』は創元推理文庫といった具合。 クリスティもクイーンもクロフツも何はさておき本書が採り上げている作品に手を伸ばしたし、とりわけそれまでなじみのなかったレイモンド・チャンドラーのハードボイルドやエリック・アンブラーエスピオナージュに触れたのはいまから振り返ると仕合わせな読書体験だった。ようやく二十代の後半にして古典的ミステリのいくつかを読み、その愉しみを知った。
そんな事情だから「決定版」があるからといって元版は不要とはまいらない。また早川書房は一九九七年に本書を文庫にくわえている。それでも一九六三年の元版が自身の本棚にならんでいるのはうれしい。



さいしょに手にした「決定版」から数えるとはや三十年以上の月日が流れている。本屋へ走って買ってきてはむさぼり読んだ海外翻訳ミステリの内容を忘れても、その心躍った日々をぼくは忘れない。自分がどれほど硬直した人間かはわからないけれど、この本は『日本外史』『明治天皇御集』「世界」「アカハタ」的硬直からなにほどか自分を救ってくれているような気がしているから、ありがたい気持にもなる。

その日、神保町のスターバックスに座りカフェ・ラテを飲みながらさきほどの獲得物を愛撫してやっているうちに裏表紙の内側に「上野文庫」のラベルが貼ってあるのを見た。上野広小路にある和菓子のうさぎ屋の隣にあった小体な古本屋さんだ。







落語、漫才、色物等の芸能関連や好色随筆、犯罪ものなど個性的な品揃えが独特の雰囲気を生んでいた。とりわけ店主の好みからだろう落語関連本は充実していて廉価の落語CDも置かれてあった。中公文庫の野口冨士男『私のなかの東京』と『わが荷風』、桂三木助「芝浜」のCDはここで買ったのをおぼえている。
 上野駅から広小路にあるき、通りの向かい側から見るとシャッターが閉まっていて、上野文庫はきょうはお休みなんだと残念な気持になったことが二三回あった。広小路を渡り店の前まで行けばもっと早く閉店を知ったのかもしれない。そのうち店主が亡くなったと仄聞したから、店はお休みではなく閉店していたのだった。今回、ネットで調べてみたところ店主の中川道弘さんは二00三年に亡くなっている。
 角田光代岡崎武志『古本道場』(ポプラ社)で岡崎武志さんはここを「大人の駄菓子屋のような店といっていい」と評しているが至言であろう。
 

ハヤカワ・ライブラリの『深夜の散歩』をさいしょに買った人はきっと洗練されたセンスの方だっただろうな。そこから上野文庫の棚を経て神保町の小宮山書店のワゴンセールに収まるまでの半世紀にちかい時間をこの本はどのような漂流を重ねたのだろう。