瞬間日記抄(其ノ九)

フィリップ・マーロウは検察局の捜査課に勤めていたが組織のなかで生きるのを潔しとせず私立探偵に転じた。「あなたのようにしっかりした男が、どうしてそんなにやさしくなれるの?」と問われて「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」。

上のレイモンド・チャンドラー『プレイバック』のやりとりの訳者は清水俊二。しっかりの原文はhard。のちに、映画のコピーその他でタフとされることが多くなった。清水は、タフとすればわかりやすいだろうがこれを訳した昭和三十年代後半にあってタフはまだ一般的に使われていなかったと述べている。

レイモンド・チャンドラー村上春樹訳『ロング・グッドバイ』と清水俊二訳『長いお別れ』とを持ち込んで「タフ」という言葉の使い方を調べている夕暮れ時のドトール清水俊二訳では「タフ」は用いられていない。村上がタフとした箇所は清水訳ではどうなっているのか調べてみたくなったのだ。

話題変わってフィリップ・マーロウとリンダ・ローリングの後朝のわかれのシーン。清水俊二は「こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。/さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」と訳している。

おなじ箇所の村上春樹訳では「フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。/さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」となっている。






読み較べるとやはり「さよならを言う」のは「わずかのあいだ死ぬこと」じゃなくて「少しだけ死ぬこと」なんじゃないかなあ。意地張ってるけど、「さよなら」を口にするのはほんとは切なくて、という男心なのだ。「わずかのあいだ死ぬこと」なら繰り返しが利くけど、死んだ「すこし」は取り戻せない。

村上春樹は「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」について「さよならを言うたびに少しずつ死んでいたら、早晩寿命が尽きてしまうのではないかと、人ごとながら心配になってしまうけれど」と書いている。(『村上ソングス』)「わずかのあいだ死ぬこと」だったら心配する必要はないのだけれど。

コール・ポーターの名曲「さよならを言うたびに」が発表されたのは1944年、『ロング・グッドバイ』の刊行は1953年。チャンドラーはマーロウ探偵の決めのせりふを書いた際にこの曲を意識していたはずだが、そうとは書かずに〈Evrytime we say goodbye,I die a little.〉はフランス人のせりふだと述べている。



村上春樹『村上ソングス』によると「さよならを言うたびに」は、フランスの詩人エドモン・アーロクールの詩に、コール・ポーターがインスパイアされてこの歌を書いたとあり、これが「定説」と紹介されている。チャンドラーのいうフランス人はエドモン・アーロクールという詩人だったのか。

和田誠のエッセイ「ギムレットには早すぎる」には、イタリアのトスティの歌曲に「別れの歌」というのがあり、「発つこと、それは少し死ぬことだ」というフランス語の歌詞が付いていて、コール・ポーターレイモンド・チャンドラーもこれを共通の出典としたのでは、という「異説」がある。