『昔日の客』

山王書房という古本屋さんがあった。一九一八年(大正七年)生まれの店主関口良雄さんが大森にこの店を開いたのは一九五三年(昭和二十八年)のことだった。それからおよそ四半世紀のちの一九七七年(昭和五十二年)に関口さんは五十九歳で没した。
 
 古本屋の店主は還暦を間近にして随筆集の刊行を思い立ち、編集と推敲にいそしんでいたのだったが、著書の刊行を見ることなく結腸ガンで亡くなった。病名は知らされていなかった。病気を知る夫人と子息は、本の完成は回復してからでよい、出すからには最善を尽くしたいとの夫であり父である人の気持を汲み、けっきょく『昔日の客』と題された著書は著者没後の一九七八年十月に同業の三茶書房から上梓されたのだった。
その『昔日の客』が昨二0一0年夏葉社より復刊された(十月三十日第一刷)。一読(というか読み終わるのが惜しくてすこしずつ読んだのだけれど)してよい随筆集に出会ったと感じ入った。

古書店の店主として作家との付き合いはあったが、しばしば商売上の交際を越えた往き来となった。正宗白鳥上林暁尾崎一雄尾崎士郎川端康成浅見淵野呂邦暢・・・・・・なかで尾崎一雄上林暁については著作目録を編んでいる。そして文士たちもこの古書店と店主をいとおしんだ。
おのずとこのエッセイ集にはさきに挙げた文士たちの面影がある。そうして古本屋をいとなむなかでの面白い出来事やお客さんとのやりとり(ここに日本映画初期の大スター栗島すみ子が登場するのは「オッ!」だった)、それに自身の回想や家族の日常などがいずれも端正で慎ましい筆致で綴られている。
以下は標題となった「昔日の客」(初出は一九七六年六月「銅鑼」三十号)について。
野呂邦暢(1937〜1980)が「草のつるぎ」で第七十回芥川賞を受賞したのは一九七四年(昭和四十九年)のことだった。この年の二月六日の授賞式を前に古書店主は作家からの電話を受けた。
 「野呂邦暢です」と言う相手に、こんど芥川賞を受賞された方がどうしてと訊ねると、作家は「いえ別に、ただ懐かしく思ったものですから」と応えた。そして御迷惑でなかったら授賞式へ出席してほしい旨を話すと店主は喜んで出席を約した。
店主は野呂がこの電話をかけてくるまでのいきさつに耳を傾けた。それによると野呂は長崎県諫早高校を卒業してガソリンスタンドに勤めるため上京して部屋を借りた。たまたまその近くに山王書房があり、本好きだったからよくここで本を買った。あるとき小遣いが足りなくて値切ったところ店主にずいぶんと叱られたことがあった。まもなく家庭の都合で帰郷するようになった野呂は、当時筑摩書房から刊行されたばかりの『ブルデルの彫刻集』が店にあり、しかし千五百円は部屋代や長崎までの交通費を考えるとむつかしかった。すると店主は千円にしてくれた。いずれのことがらも店主の記憶にはなかった。
〈「関口さんのお店に行くと、奥さんはよく小さい女の子さんを抱っこしていたけれどもう大きくなられたでしょうね」
   「ええ、二十二歳になりました。この三月には嫁に行きます」
「そんなになりましたか」〉
といったやりとりをしているうちに、店主は、そういえば五六年前に、ぼくは昔この店にはよく本を買いに来たことがあると言って、何冊かの本を買って行った三十歳くらいの人がいたのを思い出す。野呂邦暢その人だった。
店主は授賞式で挨拶をしたかったが人混みで叶わず、すると二三日して野呂夫妻が店にやってきた。ちょうど嫁入り道具を運び出していて、作家は上着を脱ぎ荷物を運んでくれた。嫁に行く娘さんにはお祝いの品を、店主には、何かお土産をとおもったけれど、僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんにと言って、作品集『海辺の広い庭』を贈る。その本の見返しには達筆な墨書きで〈「昔日の客より感謝をもって」 野呂邦暢〉とあった。
いっぽう野呂自身にも、山王書房関口良雄について書いたエッセイがある。
 ひとつは関口の「昔日の客」に先立つ五月十三日の西日本新聞に載せた「S書房主人」。『昔日の客』の読者はすぐに山王書房主人とわかる。
 そして三年後の一九七九年五月七日号(ちなみに野呂の命日は翌年の五月七日)の「週刊読書人」に「山王書房店主」を寄せている。
 ふたつともに昨年五月にみすず書房から刊行をみた岡崎武志編『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』(みすず書房)に収められている。
「S書房主人」では、主人は癇癪持ちのように見えたのでまけてくれと言い出しにくく、野呂はなるべくおかみさんが店番でいるときに買っていた。その日も、おかみさんに値切ったところ、お客さん、それは困る、と主人が顔を出して、ぎりぎりの値付けなのでしょっちゅうまけるわけにはゆかないと言ったとある。
それが「山王書房店主」では、いつも気前よく値引きしてくれていた店主だったのにその日は、道楽で本屋をやっているわけじゃないのだから、いちいち勉強していたら店がなりたたないと烈火の如く怒ったという。
『ブルデルの彫刻集』の件については「S書房主人」「山王書房店主」ともに田舎へ帰るのだと告げた若者に店主は黙って五百円を引き、自分の餞別だと言ったということが書かれてある。
山王書房店主」が執筆されたとき野呂の手許には『昔日の客』と追悼文集『関口良雄を偲ぶ』(この本は『関口良雄さんを憶う』の誤記だろう)が置かれてあった。『関口良雄さんを憶う』は逝った店主を惜しみ尾崎一雄、山高登両氏の編集により私家版として刊行された追悼文集、本書についてもこの二月に『昔日の客』とおなじ夏葉社から復刊された。
追悼文集を読んで野呂は、あのとき道楽で商売はやらないと激怒したこの店主はじつは〈俳句と私小説と歌と古本を愛した。夕焼と銭湯を愛した。これはと思う客には古本をただでくれることも珍しくなかった〉人だったと書いている。また『昔日の客』についても言及しているけれど、題名の謂れについてはひとことも触れていない。野呂邦暢という作家の人柄が偲ばれる。
本書の元版つまり三茶書房版では旧仮名遣いだったのが復刊では新仮名遣いに直してある。まことに残念で、できれば旧仮名で読みたかった。
附記

1 上に「S書房主人」と「山王書房店主」の異同を記した。前者では、主人は癇癪持ちのように見えたのでまけてくれと言い出しにくかったとあるのに対して、後者ではいつも気前よく値引きしてくれていた店主だったとある。〈野呂邦暢という作家の人柄が偲ばれる〉と書いたあとで言いにくいのだが、野呂邦暢の記憶はあいまいで正確を欠く。上にも書いたように『関口良雄を偲ぶ』は『関口良雄さんを憶う』の誤記だろう。
2 『関口良雄さんを憶う』には野呂邦暢「花のある古本屋」が収められている。そこで野呂は〈昭和四十九年の一月に私がある文学賞をうけたとき、関口さんは九州のわが家へ電話でお祝いをいってよこした〉と書いている。「昔日の客」では野呂のほうから古書店主へ電話をかけている。双方を読む限りでは「昔日の客」のほうが自然であるようにおもう
3 映画「森崎書店の日々」で菊地亜希子が店番をしながら読んでいる本の開けられている頁の表題は「山王書房店主」だった。野呂邦暢のエッセイ集を読んでいたのだろう。神保町の古本屋を舞台とした映画にふさわしく、おもわずニヤリとしたことだった。