『失われたものを数えて』

『失われたものを数えて』(河出書房)の著者高田里惠子さんは一九五八年生まれ。現職は桃山学院大学経営学部教授。専門はドイツ近代文学および日本におけるドイツ文学研究とドイツ文学受容の歴史。


ドイツ文学に限らず外国文学の「受容」は「需要」と密接に関連しています。昨今のドイツ文学は受容以前に需要が見込めないみたい。ドイツ語を選択する学生の数もすくなそうで、西洋近代文学のなかでもドイツ文学の需要の落ち込みが大きいのは想像に難くありません。
 

著者の高田さんは八十年代はじめに受験した東大大学院ドイツ文学科の面接で〈あなたは、いったいどうやって、食べていくつもり?〉との質問を受けたそうです。
 そんな質問はなくてもドイツ文学で食べてゆくことのむつかしさは分かっていましたが、敢えてリスクをとって斯界の道に進んだのでした。

だけどその度合はいまほど深刻ではなかった。学界に職を得るのにも需給関係があり、おなじ実力であっても世代によりずいぶんと事情を異にします。著者の生年を記したのは〈いったいどうやって、食べていくつもり?〉の問いかけがどれほどのリスキーさだったかを理解するためなのです。

著者は、いまの世にドイツ語教員となって糊口をしのごうとするのは相当に危険と述べています。
文学研究を志す高学歴の若者には〈いったいどうやって、食べていくつもり?〉といった質問とともに、先輩からは〈文学研究なんて携わるなよ〉という助言があったそうです。著者によれば、その深層には、助言をした側の誇らかな卑下と、された側の無用者となってもよいから文学研究をやろうといった反撥力がありました。

前提となっているのは語学教師のクチにありついて片手間にこなしてゆけば文学の研究はなんとかなるだろうとの見通しです。ほんとに食べていけないとは考えていないなかでの卑下や無用者意識にもとづく反撥は屈折したエリート意識であり一種の余裕の産物と言ってよいでしょう。
現状はどうかといえばドイツ語・ドイツ文学に限らず就職難で語学教師のクチはすくなく、オーバードクターが社会問題となっています。東大博士課程の院生にとっても〈文学研究なんて携わるなよ〉はほんとうに生存にかかわる事態であり、ひねくれたエリート意識や余裕どころではありません。

ちょうど著者の高田さんが〈いったいどうやって、食べていくつもり?〉という質問を受けていた頃、一九八一年に東芝の社長や経団連の会長を歴任した土光敏夫という方が当時の鈴木善幸首相と中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会会長に就任され、テレビでずいぶんとその質素な生活ぶりが報道されていました。戦後一度も床屋へは行かず息子に刈ってもらっているだとか、妻と二人きりの食卓はメザシと葉っぱとみそ汁と麦飯だとか。功成り名遂げた大企業の経営者の美談を揶揄するつもりはありませんが、生活に余裕なく麦飯もやっとという貧困層のリアリティに対比しますと土光さんの麦飯はどうしても貧乏ごっこのように映ってしまいます。貧乏暮らしのわたしは、いい気なものだよなあとおもったことでした。
 

余談ですが土光さんの生活ぶりをチェックしておきたくてウィキペディアを調べてみましたところ、質素にはちがいありませんが、しかしその生活は行革推進のためにずいぶんと意図的に宣伝された面があったようです。じつは、しょっちゅう故郷の岡山から山海の珍味を取り寄せて舌鼓を打っていましたし、メザシといっても高級品で知られる店のもので、当時で五、六百円もしていたそうです。べつにどうってことないのですが、そこのところを隠して、意図的な宣伝におよんだとなると、いまふうに言えばヤラセになるのでしょうか。そこまで言うつもりはないのですけれど。閑話休題

要するに語学教師のクチがそこそこあった頃の〈文学研究なんて携わるなよ〉はちょうど土光さんの麦飯のようなもので、若き研究者が文学研究など社会のはみ出し者のすることだとして無用者の系譜に自身を列ねようとする、いわば無用者ごっこだったのです。ほんとうに無用者になってしまえば恒産のない限り文学研究どころではなく明日の食糧の心配をしなければならないのですから。
 語学教師を片手間にこなしつつ文学研究をめざす高学歴の若者がする無用者ごっこ。〈失われたもの〉としてカウントされるひとつです。

語学教師の需要は当の語学の選択者の数に左右されます。不人気語学となるとおのずと教師の数はすくなくなります。文学の研究も市場原理と無縁ではなく、財政難が教員定数減少に拍車をかけます。
 こうした語学や文学研究の需給の変動は一九七0年代はじめあたりからだんだんと本格化してきました。著者によるとそれは〈ヨーロッパ文学が何か別の憧れに満ちた世界を提示してくれること、そこから再び自分の日本の現実や日常生活を生きていくこと。そのようなヨーロッパ文学とわたしたち日本人との関係〉が失われてきたことを意味しています。
 

ゲーテ、シラー、ハンス・カロッサ、ヘルマン・ヘッセトーマス・マン・・・・・・かつてのドイツ文学の栄光。でもそれは〈少し冷静になって考えてみれば、この極東の島国で、けっこうな数のドイツ文学研究者が一応、ご飯を食べていけて、相当な量のドイツ文学の翻訳が出版され、何よりそれなりに愛されていたということのほうが異常な事態〉だったのです。ここには著者の哀しみと東大ドイツ文学科の学統につながる屈折した誇りが見えているようです。 
 
 この〈異常な事態〉を終焉に導いたのが大衆化という現象でした。読書の大衆化、高等教育の大衆化、学術研究の大衆化、出版の大衆化などそこにはかつてのような〈ヨーロッパ文学とわたしたち日本人との関係〉はもうありません。
 その関係を支え、そしていまは失われてしまったものを微細に見てゆこうとして本書が描いたのは二十世紀の二十年代から六十年代にかけてのドイツ文学界を核とした知的世界の変遷であり、大きく言うと、ドイツ文学の研究や読書をめぐる日本人の精神史でした。

具体には明治このかたの文学研究者と文学受容者の変容、変化、明治の文献学や文芸学から現在の学界の事情、教養なるものの普及から少女マンガへの展開、そして現在の学生事情といったように多岐に及んでいます。

以下はそうした記述からわたしなりに理解したドイツ文学を核とした知的世界の座標です。たぶんここからも〈失われたもの〉はなにほどか見てとれるでしょう。 

大学という場所で外国語とその言語で記述される作品を教授するという職業は明治になって生まれました。それは外国語・外国文学を教え、学ぶことが高等教育の一分野として認知されたことを意味し、やがて高等教育は整備され、量的な拡大が図られました。
 高等教育の量的な拡大が図られている限りでは、就職の斡旋をはじめとする人事権を含んだ師弟関係は安定的に推移します。アカデミズムから供給される翻訳や研究を受容する側にもほどのよい安定がありました。高等教育が拡大しつつも、それほど大衆化せず、〈ほどよく知的な大衆がほどよく存在していた〉のでした。

安定期は一九二0年代から戦争と敗戦を挟んで六十年代にかけてで、この時代に重んじられたのは学術書ハイカルチャー、アカデミズム、帝大の先生。その反対側にあるのは学術とは見なされない「大衆本」やサブカルチャー、ジャーナリズム、無名な先生、在野の研究者などでした。もとよりそこには画然とした境界がありました。
 こうしてアカデミズムのハイカルチャーが提供する文学は〈ほどよく存在していた〉〈ほどよく知的な大衆〉の需要とともに受容されたのです。そこには学歴エリート文化の尊重と安定的運用がありました。
 

しかも、この〈ほどよく知的な大衆〉には文科系の高学歴者のみならず、理科系への進学者や家庭の事情等で大学へ行けずに就職した若者も含まれていました。なぜなら文学は自身の生を模索するためのものだったのですから文系理系を問わないのです。

とりわけ戦前の若者は戦死の可能性を前にしていましたから、いかに生きるかの問題は切実でした。もとよりマルクス主義者に代表される先行世代が奉じた価値観や倫理観に抗する若者もいましたが、かれらにしても自身の生を模索する姿勢という点では共通しています。

中野重治がある編集者に「金儲けするために作家になる人がいるのはほんとうですか」と訊ねたという挿話を聞いたおぼえがあります。それが戦後のいつ頃のことだったかは存じません。文学が立身出世や資産形成になりうるという、いまでは当たり前の事情がいかに生きるかの切実な問題を抱え続けてきた作家にとっては驚きのほかなかったのでした。でも、多くの若者が戦死の可能性を前にして、いかに生きるかといった問題に直面させられた時代に比較すると中野重治のびっくりはたいした問題ではありません。

さて〈ほどよく知的な大衆〉のほどのよさは選ばれた者としての矜持に裏打ちされていました。矜持を支えたのは選ばれたゆえに身につけておくべき教養なるもので、西洋近代文学は教養を構成する一大要素であり、ドイツ文学の栄光もそこに含まれていたのでした。その教養も中野重治の驚きとともにいまではノスタルジーを喚起するものとなっています。

長くなりましたが、高田さんの著作となると『文学部をめぐる病い』以来の文章の魅力に触れないわけにはまいりません。本稿は著者の大学院受験の面接体験からはじめましたので、最後にもうひとつ突っ込んで、高田さんは自身の大学院進学をどんなふうに眺めておられるのかを引いてその例示としておきます。

〈なまじ東大の文学部などに進学して無資格で無技能で無才能の高学歴者となってしまうと、進路の可能性を狭めてしまう場合もあるわけです。(現にわたしは大学院に行くしか、もうほかに道がなかった)。東大法学部から官僚や法曹関係者や学者になるという正道(?)から外れたときには、高学歴のせいでかえって選択肢が少なくなることもあるのでしょう。〉

醒めた眼を通した諧謔とユーモアのあるその文章には皮肉という棘も多いのですが、そのあいだからは花も実も見えています。