『漂砂のうたう』

茗荷谷の猫』につづく木内昇(きうち・のぼり)さんの新作となるとおのずと手は伸びる。『漂砂のうたう集英社刊。本作は先日、直木賞を受賞した。


 明治初期の根津遊廓を舞台とした歴史小説の一面はあるけれど、いっぽうでたいへんにミステリアスな小説でもある。歴史の裡に幻想がある、その独特の世界に引き込まれた読者はここで得がたい経験をすることとなる。

旧武士身分の武力による最後の抵抗となった西南戦争の動向が巷をにぎわすいっぽうで、自由民権論が台頭してきている頃、舞台は根津遊廓、社会の谷底である。江戸から明治へと時代は激しく流動していても世の中の最底辺であることに変わりはなく、ここに棲む人々は水底に漂う砂に喩えられている。
とはいえこの谷間に漂う砂にも人生といううたはある。作者は歴史と幻想のはざまから立ちのぼってくる仄かで微かなうたを聴きとろうとして耳を傾ける。その点では『茗荷谷の猫』も本作も軌を一にしている。

主人公はもと武家の次男坊。信右衛門と名のっていたが、幕府瓦解により継ぐべき家も生活の道もないままに根津遊廓に流れ着き、名も定九郎として美仙楼という見世で立番つまり客引きをしている。
 立番の責任者は龍造という男で定九郎の下心など軽く見通すほどの冷徹な眼と秋霜烈日の厳しさを持つ。
 立番の下には「仲どん」という楼内の雑用係を務める嘉吉という男がいる。美仙楼ばかりか根津遊廓全体でもトップといわれる花魁が小野菊で、江戸の盛りを彷彿とさせる気っ風のよさと和歌俳諧をたしなむ賢さが威厳と言えるほどの雰囲気を漂わせている。
遊廓の周辺に眼を遣ってみよう。
美仙楼の楼主をふくむ数人の楼主たちは賭場を設けており、ここを取り仕切っているのが山公という男で、長州出身でありながら時流に乗れないまま閉塞感をいだいて生きている。
 謎めいた笑みを浮かべながらしょっちゅう美仙楼を覗きにやって来るのがポン太という噺家の弟子だ。師匠は三遊亭圓朝というが、高座に上げてもらっているのやらどうやら。
  それに、評判の小野菊を根津から引き抜いて吉原で売りに出そうと画策しているとおぼしい吉次というやくざ者とその一統がいる。

こうした漂砂の織りなす最底辺の吹きだまりにもかすかではあれ近代という風が洩れてきている。

〈「・・・・・・たかが女郎風情が。ちょっとばかし、売れてっからっていい気になりやがって。所詮は、なんの権利もねぇ見世に飼われた淫売だろうが」「おや。権利だなんて、浮っついた新語を使うじゃあないか。その口が泡ぁ吹いてるよ」〉 

小野菊にからむやくざ者と彼女とのやりとりである。

「権利」がそうであるようにおなじく「自由」も口にのぼる。

〈「わちきら花魁にとっちゃ『自由』ってのは路頭に迷うのと同じことさ。生きる場を無くすってことだ。でもね、花魁が籠の中の鳥なのは、廓に閉じ込められてっからじゃあないんだよ。外の世界を信じてないからさ。身の回りにいるほんの一握りの人間しか見ようとしないからさ。それじゃあ籠から放たれたところで、自由にはならない」〉

定九郎は、外の世界の経験がなく、根津遊廓という作り物の町しか知らない小野菊がなにをいっぱしなことを語っている、よく言うよと鼻白む。そして、世間の人々に自由が与えられても、この谷底とは無縁であり、籠から放たれても自由になれないのは外の世界を信じていないからではなく、ここにいる誰もが新しくなった世の中に必要とされていないからに過ぎないのだとおもう。

こんなふうに根津遊廓という谷底でも自由や権利が意識され、福沢諭吉『学問のすゝめ』が話題になったりもしている。しかし、小野菊と定九郎に外の世界のとらえ方のちがいはあっても近代思想が漂砂を救済してくれたり生活を支えてくれたりするはずもないことをかれらは知っている。それぞれが屈託をかかえて生きているのはおなじである。

それでもなお谷底からはい上がろうとして山公はいずれかへと出奔した。 そして小野菊の逃走劇。ここで、遊廓で繰り広げられるドラマは、当代きっての人気噺家三遊亭圓朝の語る怪談噺、江島屋騒動の一席「鏡ヶ池操松影」をなぞるかたちで進行する。このあたりの虚実のせめぎ合い、からまり具合が絶妙で、定九郎も小野菊逃走の混乱に紛れ、遊郭からの飛び出しを企てる。それぞれの逃亡譚の結末は御一読でおたのしみあれ。

漂砂のうたう』を読んだのもなにかの御縁と、文京区千駄木全生庵にある三遊亭圓朝と三遊亭ぽん太の墓参に出かけた。同寺は団子坂とは反対の、谷中方面へ上る三崎坂のとちゅうにある。下の写真は三遊亭圓朝翁碑、お寺に入ってすぐのところにある。明治三十九年圓朝七回忌に建てられていて、鹿鳴館外交で知られる井上馨が揮毫している。

漂砂のうたう』に登場するのは三遊亭ポン太。ひらがな表記の三遊亭ぽん太は実在した人物である。永井啓夫『新版三遊亭圓朝』(青蛙房)によると師匠の愛弟子で、愚直で愛嬌ある性格として知られていたという。明治十四、五年に亡くなっており、圓朝の墓の傍らにその墓がある。