高峰秀子をめぐる二、三の妄想

一九二四年(大正13年)三月二十七日函館の平山錦司、イソ夫婦に長女が誕生する。三人の兄がいて四人目の子供だった。錦司の妹の志げが秀子と名付けた。
志げは十七歳のときに荻野市治という活弁士と駆け落ちし、新潟では高峰秀子の芸名で女活弁士となっていた。やがて荻野との関係は、男がときどき志げのところへ立ち寄る程度のものとなった。そんな事情もあずかっていたのだろう、志げは子供が欲しくて、イソが四人目の子供を身ごもったとき養子としてもらい受ける約束をしていた。志げが命名者となった所以である。

秀子が四歳のとき母イソが結核で没したため彼女は志げの養女となり、東京で生活するようになった。翌一九二九年(昭和4年)年、平山秀子は松竹蒲田のオーディションで子役として採用され、芸名を養母が名乗っていた高峰秀子とした。
高峰秀子『わたしの渡世日記』は稀代の女優の足跡を語った名著だが、一面では養母と養女の人生行路の編年記でもある。養母平山志げは猛烈な個性と特色のある人物で、養女によると〈母が私に見せる愛情のことごとくは、私側から言えば、九分通りが見当違いで迷惑なことばかりだった〉のである。そこに激しい確執はあったが、一面で養母の「愛情」は高峰秀子という女優をつくった一大要素であったことも否定できない。『わたしの渡世日記』文春文庫版にある沢木耕太郎の解説文から引くと〈娘に執着し、金に執着した養母が存在したからこそ『わたしの渡世日記』における「渡世」が存在した〉のだった。平山志げという名前に注目したいがために、その前提として彼女のポートレイトを素描してみた。
平山という姓を聞くと小津の映画に親しむ者はすぐに「東京物語」(1953年)で笠智衆東山千栄子が演じた平山周吉と平山とみの老夫婦を、そして「秋刀魚の味」(1962年)で笠智衆岩下志麻が演じた父平山周平とその娘の平山路子を思い出すだろう。
ここで採り上げたいのは「東京物語」の老夫婦の長女の名前で、杉村春子が演ずる役名は金子志げである。彼女は中村伸郎の金子庫造と結婚して、美容院を経営しているから、結婚するまでは平山志げであり、高峰秀子の養母と同姓同名、字もすべておなじなのである。大いなる偶然であろう。しかし、百パーセント偶然にしてよいのかなともおもう。
子役時代の高峰秀子は小津の「東京の合唱」(1931年)に岡田時彦、八雲恵美子夫婦の長女役として出ている。前年の「その夜の妻」も当初は高峰秀子がキャスティングされていた。蒲田には小津安二郎高峰秀子もいて、その天才子役を撮影所に連れてきていたのが平山志げというステージママだった。
『わたしの渡世日記』には、〈撮影の合間には黙々として絵本に見入るか、気味の悪いお化けの絵ばかりかいていた子供の私を、母はどんな気持で瞠めていたのだろう〉という記述もあり、平山志げが撮影所にいる時間はけっこう長かったはずだから、小津監督と面識はあっておかしくはないし、「東京物語」のシナリオ共作者である野田高悟も戦前から松竹専属の脚本家だったから平山志げを知っていた可能性は高い。
東京物語」が企画され、小津と野田がシナリオ執筆にとりかかったとき、二人に高峰秀子の養母の記憶があったかどうかはわからない。シナリオ執筆段階で小津と野田が平山志げについてはっきり意識していたならば、映画の平山志げにはなにほどか同姓同名の実在の人物が投影されていると考えてよい。大阪にいる次男の敬三の下宿で老夫婦は〈「でも、子供も大きうなると、変るもんぢやのう。志げも子供の時分はもつと優しい子ぢやつたやにやアか」「さうでしたなア」〉と語り合う。この場面を小津と野田が書いたとき、そこには高峰秀子と養母の姿が思い浮かんでいたのかもしれない。
 反対に二人の脳裡にはもう平山志げについての記憶はまったくなかったとしよう。それでも、現姓金子、旧姓平山という登場人物に志げと名前を付けてしまうほどには彼女の名前はふたりのどこかに沈潜していて、それがシナリオ段階でひょっこりと顔を出したのかもしれない。
高峰秀子と養母平山志げは「東京物語」に微妙な影響を及ぼしているのではないかというわが妄想である。

『わたしの渡世日記』は「週刊朝日」一九七五年(昭和50年)十一月二十一日号から翌七六年五月十四日号までの連載が初出で、単行本は上巻が一九七六年二月二十八日、下巻が同年五月三十日の日付で朝日新聞社から上梓されている。手許には一九七六年九月十五日の第十三刷の上巻と、おなじ日付の第十刷の下巻がある。
その下巻の冒頭、当時の社会情勢を説明するくだりに〈日本国天皇裕仁が「人間宣言」を発して全国巡業の旅に出たのが、翌昭和二十一年三月であった。〉という記述があって、天皇と全国巡業という取り合わせがほほえましかった。
高峰秀子は一九四九年(昭和24年)四月に箱根仙石原の天皇植樹祭で天皇陛下に苗木を手渡す役を務めている。どのようないきさつで選ばれたのかは言うに及ばず、ゴショクジュがなんのことかも知らないままに進駐軍のMPが乗るジープで現地に赴き、そこではじめて御植樹の介添え役なのだと知った。『わたしの渡世日記』下巻にはそのときの感想が〈天皇、皇后の御植樹のあと、居並ぶ人々がいっせいに苗木を植えはじめた。私も鍬で土を掘りながら、「たった一本の苗木を植えるために箱根くんだりまで出張しなければならない、天皇陛下もはたで見るほどラクではないな」と同情した。〉と記されている。ここの天皇陛下の箱根くんだりまでの出張という箇所についても、天皇と出張の取り合わせがなんとなく唐突で笑えた。
どうしたいきさつかは忘れているけれど、だいぶん経ってから巡幸という言葉を知った。辞書には天皇が各地を旅行されることとある。やんごとない方面では、巡業と出張はふつうには巡幸と呼ばれていて、ここではじめて違和感や唐突さを覚えた意味合いが理解できたしだいだった。 
一九九八年(平成10年)に『わたしの渡世日記』が文春文庫で復刊された。文春文庫版で先の箇所を確認すると、全国巡業は〈日本国天皇裕仁が「人間宣言」を発して全国巡幸の旅に出たのが、翌昭和二十一年三月であった。〉と直されている。いっぽうの植樹のために箱根へ出張した記述はそのままである。
週刊朝日」連載の初出は未見だが、全国巡業は全国巡幸の誤植だったのだろう、文春文庫版はその誤植を正したのだった。書物に誤植はつきものではあるけれど、ひょっとして高峰秀子は、現人神であることを否定し、人間宣言をされた天皇を人間世界にお迎えするために、あえてヒューマンで大らかなユーモアの心で巡業や出張という語を用いたのではなかったか、との妄想をわたしは一掃する気にはなれない。

市川崑監督が撮った東京オリンピックの公式記録映画が河野一郎オリンピック担当大臣の、芸術性が出すぎて記録性を欠いているとの非難を浴びたとき、ふだんは威勢のよい映画人が何の反論もしないのに業を煮やした高峰秀子東京新聞に「わたしはアタマにきた」との一文を発表し、監督と作品擁護の論陣を張った。大臣との喧嘩を買って出たのである。
 
 これを見た政治評論家の細川隆元が大臣と女優の直接対決を「週刊サンケイ」誌上で企画した。「実力女優に負けた実力大臣」と銘打った高峰、河野、細川による鼎談がそれで、川本三郎編『別冊太陽 高峰秀子』と『高峰秀子』(キネマ旬報)に収められている。

大臣と女優の喧嘩は、オリンピック映画は芸術版もあってよいし記録版もあってよいと認めあったりしてややものたりないけれど「やさしくて、スーッとしてたんじゃ、三十七年もあのひどい映画界で生きてこれません」と大臣相手に啖呵を切るところは美人で理知的で伝法な高峰秀子の面目躍如といったところだ。
「衝動殺人 息子よ」が封切られたのは一九七九年(昭和54年)九月十五日で、それを前に森茉莉高峰秀子の夫役で出演する若山富三郎に期待する一文を、当時「週刊新潮」に連載中の「ドッキリチャンネル」に書いた。そのいっぽうで妻役の高峰秀子に対し森鴎外の長女は、苦しかった戦時中のことを忘れ去らないために八月十五日には知ってる限りの軍歌を歌っているとか高峰秀子が言っているけれど、苦しかったことを思い出したくないのはいけないことなのか、あなただって骨董品やなにやで贅沢をしてるのに贅沢が悪いがごとき言いぐさはおよしなさいと詰め寄り、さらに、役者がPTA夫人かなんぞのように偉そうに喋るな、〈全くムカムカする女である〉と断じたのだった。(森茉莉『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』中野翠編、ちくま文庫より>。
 高峰秀子は「衝動殺人 息子よ」の撮影途中で女優廃業を宣言した。もともとは八千草薫がキャスティングされていたが、どうしても出演できず、木下恵介口説き落とされて出演した経緯がある。いわばやむなく出演したわけで、本人としてはそのだいぶん前に引退の決意は固めていた。
森茉莉はそんな決意などつゆ知らなかったのだろう。この時点で高峰秀子は文筆家、エッセイストとしても名をなしている。多才の人に一輪の花しか咲かせてはならぬというのは言いがかりで、森茉莉だってそんなことはとっくに承知しながら、何かに突き動かされてもの申したのであろう。〈役者はふだんは呑んだくれていたっていい。役になった時その役になっていればいいので、立派な意見を吐くのは無用である〉といった箇所は、高峰秀子に役者に専念してほしい願いが込められているようにも読める。
森茉莉高峰秀子の女優廃業宣言をどんなふうに受け止めたのかはわからない。他方、高峰秀子の目に森茉莉の文章は触れていたのかどうかも不明である。ただ、森茉莉の一文と高峰秀子の女優廃業宣言が絶妙のタイミングであったために両者を交叉させたい誘惑に駆られるのである。
女優は好きでやってきたんじゃないからやめる、しかし森茉莉さん、わたし、これからはあんたとおなじく筆一本持ってものは言いますからねと高峰秀子はおもったのではなかったか、と。
森茉莉高峰秀子。この二人に対談させたらどんなことになっていたのだろう。喧嘩対談としては「東京オリンピック」のときの女優と大臣とのそれを上回っていたのはたしかで、こわいもの見たさの気持とともに見てみたかったなあとおもう。