奈良光江のこと

その日、父は懐メロ番組を見ていた。手持ちぶさたのわたしも、なんとはなしにテレビに眼を遣っていたところ、司会者が奈良光江という歌手を紹介して、彼女がステージに立ったその瞬間、世にこれほど気品のある、美しい人がいるのかと、感に堪えない状態となった。歌っていたのは「赤い靴のタンゴ」。わたしは中学二年生だった。
すると父が何の前触れもなく土佐弁で「奈良光江はきれいやねや」と言った。返事を求めはしなかったから、おもわず口をついて出たのか、もしくは同意を得るようなふりをしてひとり讃歎したのだろう。そんなことを中学生に言われたって困りもので憮然として無視するほかないのだが、しかし息子のほうもひそかにおなじ想いを抱いていた。
小学生のとき吉永小百合が主演した「青い山脈」を見て、映画も主演女優も主題歌も大好きになった。じつはこれがリメイクであり、また主題歌もオリジナルは藤山一郎と奈良光江により歌われていたと知るのはいますこしのちのことである。
こうして新聞のテレビ欄でたまたま懐メロ番組を見かけるとチャンネルをあわせるようになったが、それでも彼女をブラウン管で見たのは十回に満たない。あるとき新聞で彼女の訃報記事を見た。脳裡に浮かんだのは佳人薄命で、この言葉はこの人のためにあるのだとおもった。

奈良光江は一九二三年(大正十二年)六月十三日に生まれ、一九七七年(昭和五十二年)五月十四日に亡くなっている。訃報に接したときはまだ二十代、つまり十代から二十代にかけてのわたしは折にふれ四十代から五十過ぎの時期にあった彼女にうっとりとしていたのだった。
YouTubeにある映像はほとんどがその頃のもので、まだ家庭用ビデオ機器が普及していない四十年以上も前の映像が投稿されているのがはじめは不思議でならなかった。おそらく再放送があり、熱心なファンが録画を投稿して下さっているのだろう。ここで奈良光枝に再会できて、ほんとうにうれしく、ありがたい。くわえて映像投稿者やそれを見た方のコメントを読むと、いろいろな奈良光江体験が綴られており、わたしの体験もけっこう普遍的だったんだと知った。
〈当時、二十歳直前の元気のいいやんちゃ坊主を黙らせるほど美しかった。清楚と純潔と言う言葉はこの貴婦人のたたずまいから生まれた言葉と初めて学びました〉。
〈中学三年生の時に見た「第七回思い出のメロディー」の藤山一郎奈良光枝による「青い山脈」。デッキとテレビをコード線でつなげ録音して何度も聴きました。たしか昭和五十年を記念しての構成でした。とにかく感激です。貴重映像に感謝〉。
〈儚げに揺れる歌唱と、気品溢れる美しい立ち姿に驚愕しましたね。この歌手は一体誰?と〉。
なかにはこんなコメントもある。
〈偶然青森出身で奈良さんのご実家近所に生まれ育った方に聞いたのですが、お母様が大変きれいで、奈良光枝は母親瓜二つだそうです〉。
そうそう、『国家の品格』の藤原正彦先生が、勤務先のお茶の水女子大で、のちに奥様となられる女性を見初めたのは、恋焦がれていた奈良光枝に似ていたからだったと書いておられるとか。何というか、それをうかがっても、そうだったんですか、と聞くほかないけれど・・・・・・。
フィルモグラフィーによると奈良光江は一九四六年から五六年にかけて十本あまりの映画に出演している。このうち五五年の美空ひばり主演「七変化狸御殿」を観ているがことさらな印象はなく、歌謡ショーふうの場面で一曲だけ歌っていた淡い記憶しかない。代表作としては昭和二十一年公開の「或る夜の接吻」が挙げられる。
小林信彦さんが、敗戦直後の歌謡曲を代表するのは「リンゴの唄」ではなく近江俊郎と奈良光江がデュエットした「悲しき竹笛」だと言っている。赤いリンゴに唇を寄せる明るさとは対蹠的に、〈ひとり都のたそがれに想い悲しく笛を吹く〉ではじまるこの曲を主題歌とした映画が「或る夜の接吻」で、戦後の世相風俗を映した本邦初の接吻映画との紹介があるこの作品を観る機会にいまだ恵まれない。わがあこがれの未見の必見映画である。
自分の姉妹を守ってやってくれと言って戦死した男の遺言を受けて復員した三人の戦友と、その姉妹をめぐるメロドラマで、奈良光枝は場末の軽演劇の劇場で歌い手をしているという役どころだそうだ。ストーリーについては片岡義男『映画を書く』に詳しい紹介があり、著者はもっとシナリオが練り上げられ丹念に作られていたならば日本の恋愛映画として歴史に残る上質な作品になっていただろうと書いている。ホームラン性のファールであってもファンとしてはうれしい。