某日。衝動的にツイッターなるものに興味を覚えた。されどフォローするとかされるとか、いまひとつよくわからないままでは不安なので、すこし勉強が必要。とりあえずはiPod touchにあるツイッターと連動する瞬間日記というアプリを用いて140字制限のつぶやきの練習をしてみることとする。
「ぼくのエリ」は吸血鬼を原曲とした見事な変奏曲で、スクリーン上に奏でられる怪奇と抒情に心が震えた。ヴァンパイアのエリに心をかよわせるオスカー少年と、フランケンシュタインの映画を観て、モンスターを現実の存在だと思い込む「ミツバチのささやき」のアナが重なって見えてくるのだった。
「人間がみんなそんなに危険だとは思わないわ」とアリエッテイは言った。人間に見られてはいけないという「借り暮らしのアリエッティ」たちと人間との共生はほんとうに無理だったのか。「吸血鬼がみんなそんなに危険だとは思わない」と言えない少年の胸の裡。「ぼくのエリ」の怪奇と叙情がそこにある。
「本を探すだけが古本屋の仕事じゃない。人間っていつも失った何かを探しながら生きているような気がする」「旅は一人に限る。なぜなら、二人でしたならばもっと愉しいにちがいないと思うことが出来るから」。いずれも野呂邦暢 『愛についてのデッサン』(みすず書房)より。
1969年にアイガー北壁へ登攀した辰野勇氏がモンベルの経営者だとは知らずに、たまたまモンベルで食事をしたあとで氏の講演を聞いた。これまで上手な講演だなあとおもった方に堺屋太一、安藤忠雄の両氏がいる。辰野氏もお二人に負けず劣らずで、お三方とも大阪生まれなのは偶然か。
三池崇史監督によるリメイク版「十三人の刺客」は工藤栄一監督の元版のストーリーを踏襲しながら、全編を貫く主題を変えてあるところがおもしろい。工藤版は戦いのむなしさ、三池版は忠誠と叛逆。池上金男(池宮彰一郎)の原作を活かしつつ、そこに工夫を重ねた天願大介のシナリオに興味を惹かれる。
まだ見ぬ荷風の映画が三本あると「荷風の映画をもとめて」に書いた。「踊子」「つゆのあとさき」「四畳半物語 娼婦しの」。このうち「踊子」が年明けに日本映画専門チャンネルで放送される。番組表には「下町」や「その場所に女ありて」も見えている。うれしいなあ、一月の日本映画専門チャンネル。
「薔薇の名前」を観に行ったところシネコンの入口で本作はR15+指定ですと書かれた紙片を渡された。わが子が十五かそこらでこの映画やウンベルト・エーコの原作に興味関心を抱いたなら、わたしは赤飯を炊いて寿ぎ、そして十分なお小遣いをあたえて本屋と映画館に送り出しただろう。
日本での「薔薇の名前」の公開は1987年で、なんの指定も受けていなかった(はず)。いまこの作品はみょうな指定を受けている。世の中、お節介の度合は高くなるばかりだ。少年犯罪に何か対策をという気持はわからぬでもないが、そのアリバイづくりに『薔薇の名前』を利用してはいけない。
ハンフリー・ボガート、リザベス・スコットの「大いなる別れ」で大好きな「ザ・ムーン・ウォズ・イエロー」が流れていた。この曲を知ったのは中学生のとき。スタンリー・ブラックとラテンアメリカンリズムスによる演奏だった。今宵はワイングラスを傾けながらエディ・ヒギンズ・トリオで聴いている。