慰問のはなし

三遊亭圓朝門下に四代目橘家圓太郎という人がいた。新橋と浅草のあいだを、粗末でガタガタと音を立てて動くところからガタ馬車と呼ばれた乗合馬車が走っていた時代、この御者が吹く真鍮のラッパを高座で吹いて人気を博した。明治の二十年代のことで、ラッパの圓太郎と囃され、ガタ馬車は圓太郎馬車と呼ばれるまでになった。
 背が低く、ふとくてまるっこい愛嬌のある男が、ラッパを吹いて、お婆さんあぶないよと馬丁の口まねをしていたという。珍芸であったにしても、明治の世相風俗を語るには欠かせない噺家である。

圓太郎は明治三十一年(一八九八年)に亡くなったが、関東大震災直後に帝都の交通復旧に一役買った急造の粗末な車体のバスがなお彼の名を冠して圓太郎バスと呼ばれていたというから、人気のほどが知れる。

この圓太郎と師匠圓朝にまつわる人情話を、寄席芸能の研究家で、作家の正岡容(まさおかいるる)が「圓太郎馬車」(『圓太郎馬車 正岡容寄席小説集』河出文庫)に書いていて、なかに圓太郎が養老院へ行くところをまちがえて刑務所に慰問に行った挿話がある。
 

圓朝が圓太郎に越中島の養老院の年忘れに落語をやってきておくれと頼んだところ、圓太郎さっそく出かけて一所懸命つとめた。翌日、師匠から、昨日の具合を訊かれた圓太郎は、みんながおもしれえってよろこんでくれるもンで、ついうれしくなって、馬力をかけて五席ばかりやりましたと答えた。
  圓朝が、何をおやりだったえと訊くと、病人の噺にゆき倒れの噺に宿無しの噺、ついでに泥棒の噺を二席たっぷり聞かせてやりました。養老院での病人、ゆき倒れ、宿無しの噺に圓朝はおなかをかかえて笑ったものの、じつは行った先は養老院ではなかった。
  圓太郎は師匠がなぜ笑うのかがわからない。すると圓朝は弟子に書付を見せた。おそるおそる開いてみると、石川島監獄囚人への落語無料長講熱演に対する監獄所主事からの礼状だった。圓太郎、養老院へ行ったつもりが監獄で、しかも泥棒の落語を二席熱演してきたのだった。これには恐縮する圓太郎に、圓朝は、まったくお前は生まれながらの落語家、することなすことひとつひとつが落語になっていると真打にしてやったというおまけが付いている。
 
 この慰問の一席が正岡容による創作か、もしくは何かを出典にしているかは不明ながら、おそらくこれに類した事実はあったのであろう。とすれば明治の世にも養老院や刑務所等への慰問は行われていたわけだ。

圓太郎のエピソードから窺われるように慰問でむつかしいのは場所柄に応じた演題演目の選び方で、そんなことはまったく考慮しないおめでたい神経や図太い人柄ならともかく、神経細やかで気を遣うタイプにはなかなかやっかいな問題となる。

「圓太郎馬車」の正岡容に〈打ち出しの太鼓聞えぬ真打はまだ二三席やりたけれども〉との辞世が遺されている。没したのは昭和三十三年(一九五八年)で墓所と句碑が谷中の玉林寺にある。曹洞宗の寺院である。
地下鉄千代田線根津駅前の根津交差点から言問通りを東へ、台東区に入ってすぐのところにある同寺の境内に建立されているその句碑は〈おもひ皆叶ふ春の灯点りけり〉というものだ。
ところで慰問に行くのは噺家や歌手ばかりではなく、変わったところでは将棋の木村義雄名人が太平洋戦争のさなか福井県傷痍軍人療養所を訪れ、一時間ほど講演をしている。八期にわたって名人位にあり、十四世永世名人となったこの大棋士は、そのなかで、いくら「必勝の信念」を以て臨んだって、四段や五段の連中が、自分に勝てるわけがないと淡々と語ったという。当時療養所にいた詩人の鮎川信夫の回想である。
 名人が戦争をどのように見ていたかは不明ながら、東京空襲を前にした敗色覆いがたい時期、「必勝の信念」で以て米英と戦えといった精神主義が声高に叫ばれているなか、こともあろうに軍の施設でかく語るとは大胆きわまりないが、実力のしからしむるところかそれとも静かなる気迫が有無を言わせなかったのか何の咎めもなかった神へもものは申しがらという。神様へのお願いにも時機を見計らって言葉を選び、言い方にも気を配る、つまり申しがらに注意せよとの古人の教えである。とはいえ名人ともなるとそんなことは関係なかったようで、こうなると人間のスケールの違いというほかない。 
 

噺家に話題を戻そう。
落語家で役者としても活躍し、惜しくも一九八五年に五十六歳の若さで亡くなった三代目三遊亭円之助の『はなしか稼業』(平凡社ライブラリー)に自身の刑務所慰問の体験が語られている。
円之助はおもう。色っぽいものは男だけの塀のなかでは気の毒だし、子供が登場するのは受刑者によってはつらい思いをさせて気が引ける、泥棒の出てくる話などは絶対避けるべしとあれこれ気を配ったうえで、隅田川の花火見物を題材とする「たがや」を演題とした。快調に進んでクライマックス近く、武士と桶のたがをつくる職人たがやとのいさかいを群衆が幾重にも取り巻いた箇所まで来てまずいことになった。

〈「少々伺います。この人だかりは、何かはじまりましたか」
  「さあ、何ですかね。私も見たいんですが見えないんですよ」
  なかで、知ったかぶりをした男が、
 「巾着切りが、捕まりましたここで噺家は、しまったと気づいたがもう遅い。聞いている受刑者のなかにスリ、泥棒が多く、聞き手は一瞬にして静まり返った。あるいは受刑者以上に噺家が動揺し、それまでの陽気な雰囲気は一転して凍りついてしまい、落語はそれから先メロメロになった。
 
 三遊亭円之助はラッパの師匠や将棋の名人のようにはいかなかった。だからだろう自身の体験と対比して九代目鈴々舎馬風が刑務所へ慰問に行った際の光景を書いている。このとき馬風師匠は受刑者を前にして開口一番「悪漢諸君」とやったが、誰一人腹を立てる者なく、爆笑の渦だったという。