洲崎パラダイス(其ノ二)

地下鉄東西線木場駅から永代通りに出て東陽町方面へ沢海橋を渡ってすこし行くと南北に延びる道路と交わる。洲崎パラダイスのアーチの架かる洲崎橋はここを南へ折れてすぐのところにあった。現在の町名は東陽一丁目、かつての洲崎弁天町である。町の名は変わったが大門通りと書かれた標識があって、通りの名に遊郭の名残をとどめている。

激しい空襲のため、大門通りをはさむ一帯の洲崎遊郭に閉鎖令が下されたのが昭和十八年(一九四三年)のことで、あとには軍需工場や工員の寮ができた。さらに昭和二十年三月の東京大空襲は深川一帯に壊滅的打撃をあたえ、洲崎はほぼ完全に灰燼に帰した。ところが戦後、焼跡が整理されるうちに大門通りの西側が住宅地に、東側がいわゆる赤線の特飲街となる。洲崎パラダイスの誕生で、大門に代わりネオンのアーチが入口となった。
永代通りの北が木場、南が洲崎である。木場は水路により材木が運ばれてくる大集積地だったから、そこはおのずと堀割が四通八達している。隣りの洲崎もおなじで、くわえてここは背後に海が控えているから水に浮いた島と呼ぶにふさわしい地域だった。
芝木好子『洲崎パラダイス』(講談社1955年)に洲崎の女と水とのかかわりの深さをしめす場面がある。水はナカの女に、〈時々堤防の下の水をみて、袂へ石をいれたくなるんですよ。水って、川って誘惑的ですねえ〉との気持にさせた。いっぽう、生きてゆくためには飽きるほどに〈あなただけは別だ〉と手管を用いて水の上に架かる橋まで客を送って来た。
時代は前後するが明治時代の洲崎を描いた作品に永井荷風『夢の女』(1903年新声社)がある。主人公のお浪は奉公先の主人に見初められ妾となり女の子を産むが、主人が亡くなると主家とは縁切りで、両親と幼い娘を養うため洲崎遊郭の女となった。それが相場師の男に引かされ二十代のはじめで廃業し築地に待合を持つ身となる。

お浪は商売の繁盛を祈って毎月穴守稲荷と深川不動尊への参詣を欠かさない。ある日、深川からの帰り、永代橋から見た水の流れに〈何となく長き一生の運命を支配する怪しき力が此の水の底の何処にか、潜んで居るのではなからうかと、語に云へぬ陰鬱なる空想が胸の中に湧起こつて来る〉のを覚えた。荷風は水に浮かんだ地で生活したお浪の体験をこの気持に反映させているように思われてならない。
かつてはゆたかな水を湛えた堀割もいまでは多くが埋め立てられ、洲崎橋のかかった洲崎川も緑道公園となっている。東京でよく見かける堀割運河跡の細長い公園で率直なところ味も素っ気もない。その反対にこの地をめぐる堀割では大横川がいまに残り、よい風情を醸し出している。
沢海橋にもどり一歩南にはいると永代通りに並行する道路があり、ここをすこし西に行くと洲崎神社がある。大横川はその脇を流れ、川伝いに西進すると人道橋というのであろうか通路として架けられた細い橋がある。これが新田橋で、路地裏の掘割に架かる小さな橋にはなつかしい風情が漂う。この一角は平成二年度第一回江東区まちなみ景観賞を受賞している。橋のたもとには船宿、吉野屋がある。機会があればスローボートならぬ屋形船にのってみたいものだ。<
一九五二年(昭和二十七年)だから「洲崎パラダイス」の四年まえに成瀬巳喜男監督が大映で撮った「稲妻」(原作林芙美子)に新田橋のシーンがあって美しい。
光子(三浦光子)は夫が急死してはじめて亡夫に妾と子供がいるのを知る。しかも妾リツ(中北千枝子)からは生活資金として保険金の一部を廻してくれるよう催促があった。困惑する光子は異母妹の清子(高峰秀子)と新田橋のたもとにあるリツの家をたずねてこの橋を渡る。当時は木橋でいまの鉄橋とは違うけれど雰囲気としては当時とさほど変わっていない。

「洲崎パラダイス」から「稲妻」の新田橋のシーンへと、日本映画の名作の面影をたずねたわけだが、ここまで来ると、深川生まれのあの方に御挨拶しないままでは家に帰りにくい。そう、一九0三年(明治三十六年)十二月十二日、当時の東京府深川区に生まれた小津安二郎監督である。永代通りを西へ地下鉄門前仲町駅前まで行くと、ここで清澄通りと交わる。その清澄通りを北へしばし歩いていると心行寺という立派なお寺が見えてくる。この寺院と通りを隔てた歩道のかたわらに小津安二郎誕生の地をしめす看板がひっそりと立っている。

夏の日の午後の町歩きのあとで「洲崎パラダイス」や「稲妻」を偲びながら飲んだ生ビールは格別だった。