2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ジョヴァンナ・メッツォジョルノのことなど

四月になるときまってヴァーノン・デュークの名曲「エイプリル・イン・パリ」を思い出す。エドガー・イップ・ハーバーグの歌詞ではワインの香り、マロニエの花、木陰のテーブルがあしらわれて春の女神が幸せと恋心をもたらしてくれる。これほど四月に似合い…

正岡子規記念球場句碑

上野公園内、正岡子規記念球場にある子規の句碑には「春風やまりを投げたき草の原」が刻まれている。 句碑に添えられた解説プレートには、子規が上野公園で野球を楽しんでいたのは明治十九年から二十三年にかけて、随筆「筆まかせ」には明治二十三年三月二十…

「異端」の言論活動〜宮武外骨(関東大震災の文学誌 其ノ十七)

「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪を経とし色気を緯とす。過激にして愛嬌あり」(「経」はたていと「緯」はよこいとの意)をモットーとした反骨のジャーナリスト宮武外骨は関東大震災のあと「震災画報」と題した雑…

正岡子規記念球場

日本に野球が紹介されて間もないころ、正岡子規が野球を愛好し、数々の野球用語を和訳したのはよく知られている。野球の基本を解説した随筆「ベースボール」で子規はベースボールに要するものとしてまず「およそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなお善…

「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」

1961年冬。 ルーウィン・デイヴィスはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのライブハウスを拠点に活動するシンガーソングライターだ。フォークソングを歌い続けているがなかなか売れず、音楽での生活をあきらめようかとも考えている。 破滅型ではないけれ…

本郷菊冨士ホテル跡

本郷菊坂にある菊富士ホテル跡の石碑。その傍らには由来を示す石碑とともに主な止宿者の名が刻されている。 由来については明治三十年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江夫妻がここに下宿菊富士楼を開業し、大正三年には菊富士ホテルと改名し営業を続けたが…

『わたしの上海バンスキング』

ことし二0一四年二月十六日の朝日新聞紙上で明緒(あきお)『わたしの上海バンスキング』(愛育社)が採りあげられていて「第二次大戦下の上海に集うジャズマンらを描いた音楽劇の傑作『上海バンスキング』。この作品を生んだ人々と時代を、『遅れてきた観客…

笠森お仙碑

笠森お仙(1751年-1827年)は谷中の笠森稲荷門前の水茶屋鍵屋で働いていた看板娘。浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなりお仙見たさの参拝客が増えたという。 大正八年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌にあたっていて、それに先立つ四月永井荷風に記念の…

『アメリカ様』

昨年の『震災画報』につづいて宮武外骨『アメリカ様』がちくま学芸文庫の一冊にくわわった。 元版は東京裁判が開廷した一九四六年五月三日に蔵六文庫から刊行されていて、『震災画報』に較べると自由にものが言える度合が大きくなったぶん、より心を開いて多…

恋文横町

渋谷の文化村通りから道玄坂へとあるいていると「恋文横町ここにありき」としるされた標柱がある。一九五三年(昭和二十八年)に朝鮮戦争が休戦となり多くのアメリカ兵は日本の基地から本国へ帰った。別れを惜しむラブレタ−を書こうにも英語のできない女性は…

「誘拐」と「相棒-劇場版Ⅲ-」

むかしからハリウッドは社会的な問題を興味深く、面白く撮るのに長けていた。 いっぽう日本映画はまじめな主題を採りあげると往々にして下手な啓発映画のようになってしまう傾向がある。主題は立派だが映画として面白くないのである。わたしは主題はどうあれ…

「生きることほど、人生の疲れを癒してくれるものは、ない」(伊太利亜旅行 其ノ六十)

ヴェローナからバスでミラノのホテルへ着いたのは夕刻だった。明日はマルペンサ空港から帰国だ。でもまだ夜がある。 「荷造り?」 「寝なければ出来る」 わたしたちのグループは電車でふたたびドゥオーモのある中心街へ行き、ショッピングと食事をしてホテル…