新コロ漫筆〜「御役人は隙になくては不叶事也」

九月三日、菅首相自民党総裁選の不出馬と首相退任を表明した。これをうけて小泉進次郎環境大臣が、感謝のほかなくこれほど仕事をした内閣もないと涙を流しておっしゃっていた。感謝は個人的なものだからともかく、これほど仕事をしたというのには首をかしげた。

小泉氏は流した汗の量をいっているのだろう。しかしわたしが首相に求めたいのは多くの汗ではなく政策を構想する力や適切な判断力、つまり問題は質であって汗の量ではない。

GOTOトラベルでブレーキではなくアクセルを踏んだとき、菅内閣の判断力に疑問符を付けたわたしは、残念ながら最後までそれを消す機会はなかった。首相はGOTOトラベルと新型コロナ感染者の増大とは関係ないと言い張ったが、毎日新聞川柳欄にあった石垣いちごさんの「トラベルを終えてGOTOホスピタル」がはるかに現実をよく示している。

荻生徂徠徳川吉宗に捧げた献策書『政談』で、徂徠は、上に立つ大きな役の人ほど隙がなくてはいけない、大役は世界を見渡し判断できなくては役職を全うできない、隙があれば智慧が働き、学問にも触れることができると述べた。

徂徠には毎日お城に上がり、隙のないのを自慢し、御用が済んでも下城せず、仕事はないのにあるそぶりをしているなど以ての外なのである。指導者は心と時間にゆとりをもつ、それが冷静、的確な判断につながる。

菅首相はほとんど休みを取らず仕事していたと報じられている。八月二十一日に首相が定期検診で病院に行くと「近日中に体調不良で辞任」という情報が流れた。八月二十九日に休みをとると、これが百五十四日目の休日で、あまりの働き詰めからまともな判断ができなくなると心配した周囲が説得したという。いずれも真偽不明の噂ではあるが「週刊朝日」が伝えている。この人に心と時間のゆとりはなかったのかもしれない。

小泉環境大臣の、これほど仕事をした内閣はないという発言にはこうした事情が含まれているのだろうか。しかし大役には隙があって智慧は働くという荻生徂徠の所論からすれば、やみくもに汗を流しているのはいかがなものか。汗を流すのは陣笠議員や役人であって、首相には別のことがらが求められている。

これを書いている九月十三日現在、自民党総裁選には三人が立候補し、あと一人か二人出るかもしれないと取りざたされている。さほど熱心な政治ウオッチャーではないとしたうえで申せば、なんだか優等生の集票フェスティバルのようで、われこそは正義の権化、他の方はどうも……といった政争の迫力を感じない。政治家は政治を面白くして国民の政治的関心を高めるのも仕事のひとつという観点でいえばこちらにはもっともっと汗を流していただきたい。

昔のことをいえば鬼が笑う、老いの繰り言は真っ平御免ではあるけれど、 その昔の三角大福またこれに中をくわえた派閥の領袖たちが繰り広げた政争は迫力が違っていましたな。詳しくは伊藤昌哉『自民党戦国史』をご一読あれ。

それはともかく、いずれの候補者が次の自民党総裁に、また内閣総理大臣になろうとも、むやみに汗など流すことなく、心と時間のゆとりを持って冷静、的確な判断をしていただきたいと願っています。それと下した判断に賛否はあるが、しっかりした説明、説得を欠かさない方を望みます。

「孤狼の血 LEVEL2」

前作「孤狼の血」は広島県の架空都市である呉原市でやくざの抗争を収束し、秩序を回復しようとして裏社会に深く食い込んだ刑事の物語でした。

刑事は対立する二つの暴力集団の調停を図ろうとしますが、警察内部の陰謀もあって上手くゆかず、組同士の攻防に巻き込まれ殺されてしまいました。ときは昭和六十三年、大上章吾巡査部長(役所広司)は死後たちまち伝説の刑事と化しました。

それから三年後。平成のはじめの呉原市では暴対法の施行を前に抗争は落ち着きをみせ、ドンパチよりカネの流れが定着しています。裏社会の秩序の構図を描いたのは三年前、新任の刑事として大上の下に配属された日岡秀一(松坂桃李)で、大上の遺志を受け継いだ日岡の差配によりなんとか平穏がもたらされたのでした。

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そうしたところへ悪魔の異名をもつ上林成浩(鈴木亮平)が出所してきます。刑務所の看守たちが手こずり、もてあましたあげく、書類上は模範囚として刑期を早く終えさせた男で、シャバに戻った上林は、上林組組長として呉原市の平穏をまやかしの秩序としてぶっ壊しにかかります。状況は急変し、日岡は窮地に追い込まれます。

脱力するほどの面白さでした。前作に続く白石和彌監督のマジックに酔いしれた気分です。「仁義なき戦い」や「県警対組織暴力」のファンがニヤリとするであろうシーンも多く、立派な変奏曲となっています。

とりわけ鈴木亮平の上林成浩が「仁義なき戦い 広島死闘編」の大友勝利をパワーアップしたイメージで、大友役を演じた、先日亡くなった千葉真一に素敵なオマージュを捧げています。

騙し、騙され、裏切り、裏切られは組織と組織、人間と人間との関係を激しく動かし、ときにカオスをもたらします。やくざ映画の大きな魅力で、このことは本作においても暴力団同士の、また警察内部の刑事部門と公安部門との攻防に示されています。ただラストのアクションシーンに力点を置いたぶん、この点の描写が過剰な望みではありますが、やや深みを欠いたように思いました。いずれにせよ続篇がつくられるよう期待しています。

以下メモ書き。

1 エンドロールに有働由美子の名前が見えていましたが、どのシーンにいたのかな?

2 おなじく名前は記憶できませんでしたが、広島市呉市の機関が協力としてクレジットされていました。「仁義なき戦い」が広島でのロケを断られたことを思い、時代の流れを感じました。

 

新コロ漫筆~「地獄を作るな」

「天堂を願はんより地獄を作るな」

太田南畝『半日閑話』に引かれてあったある方の家訓で、天堂は天上界、極楽浄土を意味している。

菅首相東京オリンピックパラリンピックを開催して成功させ、衆議院議員選挙の勝利と自身の自民党総裁再選を果たし、首相続投につなげる意向と報じられている。めざす「天堂」である。ところがこの人は見たい現実しか見ようとしないタイプの方だから「地獄を作るな」の発想をどれほどお持ちなのだろうか。

七月八日。政府は、東京都において、新規陽性者数が高い水準にあり、増加傾向が見られることなどから、感染拡大の防止等を図るための措置として緊急事態宣言を発出することを決定した。これを受けて、大会組織委員会や東京都、国際オリンピック委員会IOC)などは五者協議を開催し、都内の全会場を無観客とすることを決め、さらに神奈川、埼玉、千葉の三県の競技会場も無観客が決定した。

さっそく有観客を断念し無観客としなければならないほどに、首相が描いた「天堂」の実現は簡単ではない。首相としては残念だっただろうが「地獄を作るな」のためには無観客の措置はよかった。

それからひと月も経たない八月二日、またまた「地獄を作るな」と声を大にして訴えたい事態が生じた。

東京新聞によると政府はこの日の夕方、新型コロナウイルス感染症の医療提供体制に関する閣僚会議を首相官邸で開き、肺炎などの症状がある中等症について重症化リスクが高い人を除き、自宅療養とすることを決めた。家庭内感染の恐れや自宅療養が困難な場合はホテルなどの宿泊療養も可能とする。デルタ株の広がりによって全国の新規感染者が1万人を超える日もあり、病床不足への懸念が強まっており、これまでの原則入院から事実上の方針転換となる。

同紙はまた、入院対象を重症者などに厳格化し限られた病床を効率的に使うのが目的だが、自宅療養者が増えれば容体急変時に迅速に対応できない恐れがあり、健康観察態勢の整備が急務となると懸念を伝えている。

これに先立つ七月二十七日の記者会見で菅首相は「重症化リスクを七割減らす新たな治療薬を確保した」、新型コロナの新規感染者数が過去最多を更新するなか「徹底して使用していく」と豪語した。この新薬は中外製薬の抗体カクテル「ロナプリーブ」で点滴として軽症・中等症の患者に投与する。治験では肥満や高血圧など重症化リスクの高い患者に一回投与すると、入院または死亡リスクがおよそ七割減ったとされる。

けっこうな話ではあるが「ロナプリーブ」は軽症・中等症の患者に点滴で投与するものだから短期であっても入院が必要となる。つまり軽症・中等症の患者は自宅療養とされると重症化リスクを七割減らす治療薬は使用できない。こうして発言に体系性、一貫性はなく、入院と治療薬との関連ひとつとっても理解に苦しむ。

感染対策を徹底し、国民の命と健康を守り、安心・安全な大会を実現していく、というのが、新型コロナ対策の推進とオリンピックパラリンピック開催に向けての基本ラインである。極楽浄土の願いとともに地獄を作るなの発想があれば今回の問題についてもホテルの借り上げの拡充や大規模ホールや体育館を一時的に療養施設とするなど手の打ちようがあったはずだ。

ニュースを聞いてすぐさま、感染者と同居家族はどんなふうに生活すればよいのか、病状が急変した際の家庭と医療機関との連絡協力体制はどうあるべきか、単身者だと病状の悪化で連絡ができない場合だって想定しておかなければならず、ふつうに生活できても食事や買い物はどうすればよいのだろう、などの不安を思った。

「地獄を作るな」は防御力を充実せよ、ディフェンスを強化せよという戒めである。攻めと守り、どちらも重要ではあるけれど、新型コロナ禍のいまより強く求められるべきは守り、すなわち感染拡大防止の工夫だと思う。首相がGoToトラベルでブレーキを踏むべきときにアクセルを踏んだために感染の拡大と経済の損失を招いたのはディフェンスの弱さであった。

 

(附記)

八月五日。参議院厚生労働委員会の閉会中審査で田村憲久厚生労働大臣新型コロナウイルスの感染拡大に伴う入院対象者の見直し方針について、「中等症は原則入院。重症化リスクが低い人が在宅になる」と述べ、実質上、見直し案を修正した。

菅首相の退任表明前に書いたものですが、述べたいことに変わりはなく、そのまま載せました。

 

 

 

 

新コロ漫筆~On Liberty

さきごろ国民民主党立憲民主党がそれぞれ連合と締結した政策協定のなかに「左右の全体主義を排し」との文言があり、これについて国民民主党玉木雄一郎代表が「共産主義共産党のことだ」と発言したところ、日本共産党がこれに反発し、小池晃書記局長が撤回するよう求めたという出来事があった。 

現在の日本共産党全体主義の政党とは思わないが、これまでのところ共産主義が左の全体主義であることは明らかで、日本共産党のいう共産主義だけは特別であるとの主張はご自由だが説得は難しいだろう。共産主義を「人間が判断する材料は過去の経験しかない」(京極順一『文明の作法』)立場からみて、左の全体主義とするのは妥当な判断である。

かたや右の全体主義を代表するのにファシズムがある。

ヒトラーは平和を心から願っています。外国の方は、彼の誠意を信じようとしません。でもわたしは、彼がフランスと友好的な関係を結ぼうとしていると確信しています」

「確かに行進やら教練やらがやたらとありますが、これは戦争とはなんの関係もありません。ドイツ人はあれが好きなんです」

ふたつの発言はいずれもドイツにあってナチスの動向を詳細に報じたアメリカ人ジャーナリスト、ウィリアム・シャイラー『ベルリン日記 1934-40』にある。シャイラーのインタビューに応じた穏やかなヒトラー支持者の発言からは、 ヒトラーの熱烈な信奉者ほどには目の曇りのない人々であっても目の前の現実を認識することがどれほど難しかったかがよくわかる。

ここでも「過去の経験」の検証は重要で、このこと抜きにヒトラーは平和を心から願っていたのだからと、いまなおナチス党やファッショ党を名乗っている党派を全体主義ではないとするのは無理がある。共産主義においても同様である。

東京オリンピックの聖火最終ランナーを務めた大坂なおみだが、某誌水着特集の表紙に登場した彼女に、著名な米国のコメンテーターが「内気でうつ状態なのに、水着姿は披露する」とSNSで突っ込み、大坂側は反論したとの記事を読み、わたしのなかで一瞬、大坂とわが党の共産主義全体主義ではないと訴える日本共産党の姿が重なった。いずれも独特、個性的で、わたしには理解が難しい内気・うつ状態共産主義である。

附言しておくと、わたしはこの国の全体主義への傾きと危険は左より右にあると考えているから、玉木氏が左の全体主義を云々するのであれば、右のほうにも言及があってしかるべきで、氏の発言はバランスを欠いている。

 

七月八日、東京都への四回目の緊急事態宣言発出が決まった際の会見で、西村康稔新型コロナ対策担当大臣は、酒の提供停止要請を拒む飲食店の情報を金融機関に流し、順守を働きかけてもらう、と語った。加えて酒類販売事業者にたいし、酒の提供要請に従わない飲食店には、酒類の取引を停止するよう呼びかけた通知文を流して、こちらにはコロナ対策室のほか国税庁酒税課も名を連ねていた。

どちらも酒販業者から猛烈な抗議を浴び、野党はもとより自民党からも不満が噴出して撤回されたのであったが、自由民主を冠した党の総裁が首相の任にある内閣も自由主義経済を否定する動きをしかねないのだからあまり政党名にこだわるのはどうかなとも思うが、左右の全体主義の問題はおろそかにはできない。

ナチスが躍進していたころ日本ではそれと軌を一にするように、もはや古典的な自由主義の時代ではない、新しいステージに突入しなければならないと「近代の超克」が喧伝された。今回の酒の提供をめぐる動きはいわば「近代の超克」というべきもので、人類のもつ最高の叡智のひとつ古典的自由主義を軽視否定しようとする試みは要注意である。

もうひとつ。

立憲民主党本多平直衆院議員が党のワーキングチームの会合で「五十代が十四歳と恋愛し、同意があった場合に罰せられるのはおかしい」と発言して党の内外から批判され議員辞職した。これが党の方針を踏まえず公衆に訴えたのであれば処分は当然だった。しかし発言の場が特定のプロジェクトについて詳細にわたる討議が期待されるワーキングチームであったことを考慮すると、処分は党内での自由闊達な議論の封殺を意味する。たとえば妊娠した際の対応方針について検討する必要はなかったのだろうか。

本多議員の問題でわたしはこの党は方針を打ち出す過程の討議討論の場であっても一定のコードに沿った発言をしないと処分される怖い党と知った。党の立場からして謬論や極論であってもそれらを含む多様な意見、考え方を材料に討議し、方針を定めていくのがワーキングチームの役割であるだろう。そこで不都合な意見を口にしたからと処分するなんてとんでもない暴挙で、国民民主党の玉木代表はこの件をも全体主義の芽として指摘すべきである。

西村康稔経済再生担当大臣が発した「酒類提供停止に応じない飲食店との取引停止」と、党内論議で一定のコードに沿わない発言をした議員を処分した立憲民主党、二つの事案の根にあるのはおなじで、経済的自由主義の圧迫と、党における自由な議論の封殺はともに自由主義のあり方に関わる問題だ。

あえて比較して悪質、タチの悪いのは党内論議の封殺のほうだ。「酒類提供停止に応じない飲食店との取引停止」は多くの人々が反対の声を上げ、政府に撤回させた。それは言論の自由があればこそ可能だった。他方、立憲民主党の行為は声を上げること自体を否定する要素を孕んでいる。悪質、タチが悪いとする所以である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「モロッコ、彼女たちの朝」

日本ではじめて公開されるモロッコ発の長編劇映画と聞いてさっそく駆けつけました。

あのリックとイルザの物語はすべてセットで撮影されていますが、舞台となったカサブランカがわたしにとって映画の聖地であることに変わりはありません。それに二0一四年にモロッコを旅行していてあらためて街並みや生活風景が見られるのも楽しみでした。

迷路のような旧市街の路地には入口のドアを除いて白い壁に覆われた白い家(カサブランカ)が建ち並び、ここを臨月のお腹を抱えたサミア(ニスリン・エラディ)が仕事と居場所を求めて訪ね歩いています。モロッコを旅したときは宗教のしばりは比較的ゆるい印象でしたが、ほんとのところはよくわかりません。いずれにしても未婚の母となると「逮捕を免れているだけの犯罪者」とされ、そのため彼女は美容師の仕事も住居も失ってしまいました。

そんなサミアを見かねて一晩だけ泊めてあげるという奇特なパン屋の女主人(「灼熱の魂」のルブナ・アザバル)がいて、これが一夜とはならず、サミアはこの家で出産をすることになります。

パン屋さんはアブラという母と小学生の娘ワルダと二人暮らし。アブラがもつ心の傷が妊婦と通じているだろうと推し図られますが、この時点ではどうして父親がいないのかは明らかにされません。その事情はやがて知らされるのですが、いっぽうサミアの妊娠をめぐる事情はほとんど不明のままです。

本作は長編デビュー作となるマリヤム・トゥザニ監督が、過去に家族で世話をした未婚の妊婦の想い出がもとになっているそうですが、登場人物のプライベートなことがらは必要最小限に止め、夫のいない母親と、父親のいないその娘、そして未婚の妊婦を配して、女性と、社会と宗教のありかたに焦点を絞り、そのことで枝葉を切り落とし、テーマの明確な女性映画となったと思いました。ちなみに本作は二0一九年のアカデミー賞で女性監督初のモロッコ代表作品に選ばれています。つまりモロッコでこの映画の公開は禁止されていない、ここにも、宗教のしばりの比較的ゆるいモロッコを感じます。

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女主人と娘、身を寄せる妊婦の共同生活はやがて出産の日を迎えますが、そこには「逮捕を免れているだけの犯罪者」の子供となる赤ちゃんをどうすればよいかの問題が待ち構えています。サミアが育てるならば赤ちゃんの将来は犯罪者の子にほかなりません。それよりも子供が欲しい家庭の養子とするほうが子供にはしあわせなのではないか。彼女もいつまでもパン屋さんで世話になるわけにはいかず、妊娠出産をなかったことにしておくほうが生きていきやすいかもしれない。思いつめる彼女の姿はともに生活するアブラはもとより、女性への社会的圧力を体感する手前にある子供のワルダにとっても他人事ではなくなっています。

特筆しておきたいのはこうした問題が具体的な生活の描写が重ねられるなかで語られる、その語り口がこの映画の大きな魅力となっていることです。アブラのパンづくりを手伝うサミア、アブラひとりでは手が回らなかったモロッコ伝統のパンケーキ「ルジザ」をつくり、それをワルダに丁寧に教えるサミア、パンを焼く窯が壊れたときのアブラの対処ぶりといった食の風景、カセットテープで聴くモロッコの音楽とそれに合わせた踊りの風景(家庭での音楽はCDではなくラジカセが一般的なようです)、窓は洗剤スプレーをシュッシュとかけて拭いていますが洗濯機はなくて洗濯板でごしごし洗っているなどのもろもろの生活風景が散りばめられた「絵になる」シーンを通して彼女たちの心の風景が見えてきます。

(八月十七日TOHOシネマズシャンテ)

「カサブランカ」はじめての吹替版

七月一日。一回目のワクチンを接種した。あらかじめ配布された問診票の項目に、質問がある方はチェックをしておくようにとあったからチェックを入れたところ、接種をまえに医師が、質問があるんですね、というので、今晩は晩酌してよろしいでしょうかと訊くと、カックンと来ていた。大切なことなのに。ありがたいことに適度に飲むのはOKとのお答えだった。

無事に終わった一回目の接種だが、じつは副反応が気になって何回か腰が引けた。

国立精神・神経医療研究センターの大久保亮室長は「特に若い世代では、SNSなどの根拠のない情報で接種しないと決めるケースがみられる。厚生労働省のホームページなどで正しい情報を確認して、改めて考えてほしい」と話している。その厚労省のホームページの「正しい情報」でも接種のはじまった二月から六月十八日までに356人の方が亡くなっている。(七月二日時点で556人、八月四日時点で919人)

偶然が作用しているとしても接種のあと数日間でこんなに多くの方が亡くなるなんて思ってもみなかった。

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カサブランカ」を鑑賞したのは十回ひょっとするとそれ以上かもしれないが、このほどはじめて日本語吹替版をみて、ラストの飛行場、リックとイルザの別れのシーンでの「君の瞳に乾杯」に涙ぐみそうになった。字幕版ではここまでうるうるとならなかったのに。声優の力量はともかくとして、目から入る字幕よりも耳から入るせりふの力が強いのだろうか。

昔気質の映画ファンなので吹替版なんて見向きもしなかったが、字幕版も吹替版もともに楽しめばよいと思うようになった。人間ができたのでしょう、とだれもいってくれないから自分でつぶやいてみた。それにNetflixAmazon Prime Videoで吹替版に接する機会が増えた事情もある。往年の名画を吹替版で鑑賞する新たな楽しみができた。

いまはどうか知らないが、かつては映画評論家の多くは吹替版には重きを置かなかった。なかで瀬戸川猛資(1948-1999)は吹替版が好みで、字幕に較べ情報量が多いのを重視していた。本はできるだけ持たないと決めて手放してしまったが氏の編集した双葉十三郎の大著『ぼくの採点表』にはずいぶんお世話になった。

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七月七日現在東京はまん延防止等重点措置のもとにあり、酒類の提供や施設内への持込を行う場合は、同一のグループの入店:二人以内、酒類提供の時間:十一時から十九時までの間、利用者の滞在時間:九十分以内、客は大声での会話や笑い声はいけないとされている。

これほどの規制を受けるなら外出を自粛して自分の家で飲むのがよほどましで、たしかに理屈としてはその通りだが、ひと月に数度はなじみの飲み屋さんに足が向く。理屈だけで人生を送っているわけではないのである。

永井荷風「浅瀬」(『新橋夜話』所収)で登場人物のひとりが「一体吾々は何の為に、良心と戦つてまで悪い場所へ行つて、良からぬ行ひをしようと云ふのか。その欲する処は、厳格な社会、清潔な家庭に於いて敢てし得ざる事を敢てしたい為めぢやないですか。それがどうでせう(中略)何処の料理屋へ行こうが待合へ行こうが、夜の十二時を打てば大きな笑い声も出来ない。それ位なら自分の家にいた方が余程自由です」。

なんだか読みようによっては緊急事態宣言のもと外出自粛を説得している内容であるが、みんなが「厳格な社会、清潔な家庭に於いて敢てし得ざる事を敢てしたい為め」に遊びに出るとしたところはさすが荷風先生らしい。

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自分がオリンピックやパラリンピックの選手とか大会の利害関係者だったとしたら別の選択をするかもしれないが、わたしは東京在住の高齢者としてできるだけ感染症は避けたいというのが基本的立場だから、オリパラのリスクは取ってほしくないと考えている。置かれた立場や職業、生活環境により考え方は異なる。そこのところを調整し、多数が納得のいく方針を定めるのが政治の重要な業務である。

櫻井よしこ氏との対談で安倍前首相はオリパラに反対している人は反日的といった旨の発言をなさったそうだ。説明や説得は抜きにした硬直したイデオロギーと、敵と味方の二分法という単純な発想しか持たない政治家の発言に驚きはなかったが、反日的は特定の外国を指す言葉と思っていたところ、かつての非国民をいう現代用語でもあると勉強させていただいた。

作家の平野啓一郎氏が安倍発言を念頭において、トーマス・マンボン大学との往復書簡」(1937年)の一節をTwitterに紹介していた。

「小生は彼ら(ナチス)に反対する旨を表明したことによって、なんと国家を、ドイツを侮辱したことになるのだそうです!彼らは、自分たちとドイツ国家を混同するという、信じられないような図太さを持っているのです!」

それにしても新型コロナに感染しないようにしたい、自分を守りたい、その点でオリパラは危ないといっただけで反日や非国民とされてはたまったものじゃない。 嫌な世の中になったものであるが、世間には、オリパラに反対している高齢者は甘ったれた連中と考えている人は多いかもしれない。無職渡世の下流年金生活者は肩身狭く暮らして、屈辱を忍んでおれ、というわけだ。

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四年に一度結成されるブリティッシュ&アイリッシュライオンズ(イングランドウェールズスコットランドアイルランドラグビー協会の連合チーム)が南アに遠征していて、七月七日に行われた三試合目となる南アのクラブチーム、シャークスとの試合を録画観戦しようとしたところ、キックオフが一時間遅れとなっていた。シャークスとの対戦を前にB&Iライオンズ側に陽性者一名と濃厚接触者数名が出て、メンバーを大幅に入れ替えるために取られた措置だった。

十日にはB&Iライオンズと南アのクラブチーム、ブルズが対戦する予定だが、こんどはブルズ側に陽性者が出て対戦取りやめとなり、八日現在対戦相手は未定となっている。Jスポーツ中継の解説者大西将太郎氏は「暗雲立ち込める事態だがなんとかテストマッチ三試合までこぎつけてほしい」と語っていた。

四年に一度開催されるラグビー界の一大イベントは完全無観客をはじめ感染症対策に多大の努力がされていると聞いている。しかしそれでも「暗雲たちこめる」事態となっている。

東京五輪を前に日本ではあまり報道されていないようだが、揣摩憶測はやめておこう。

いずれにせよこれ以上選手陽性者が出ませんように。

(八月七日シリーズは終了。テストマッチは南アの二勝一敗だった)

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数日前からG社のウォッチで計測するジョギングのタイムが悪く、アシックスのアプリを併用して走ったところG社のほうの走行距離が150メートル短かった。翌日はナイキのアプリを用いたところ200メートル短い。当然1キロあたりのタイムもよくない。長く使うとGPSも精度が悪くなるのかと首を傾げながらアップルのウォッチと交換した。

ところがこれとスマートフォンとを同期するのにまたまたひと苦労だった。

機種交換で経済的ダメージを被り、情報リテラシーの乏しさから戸惑い、難渋してため息をついたが、それを厭わないのは正確に距離とタイムを測り、少しでもよいタイムでフィニッシュしたい気持にほかならないと自分で自分を褒めてやった。

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新型コロナ禍のなか、月に一度行われている10キロヴァーチャルマラソンに参加している。ここ三回は56:16、283/846、57:25、321/774そして七月は56:39 、305/1265だった。やっとのこと5分代の後半でフィニッシュできているが……いま一番怖い数字は申すまでもなく6である。

今月のレースは完走者を対象に十月の東京マラソン参加権の抽選が行われる。海外からの一般参加が不可となったことによる補充抽選で、東京都民枠、一般枠ともに落選だったので朗報を期待している。

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IOCコーツ調整委員長は緊急事態宣言であっても五輪は開催すると言い放った。来日したバッハ会長は日本国民には都道府県をまたいだ移動は自粛が要請されているにもかかわらず広島へ、コーツ氏は長崎へ出かけた。こうした国民感情を逆撫でする発言、行動に対し日本政府や大会組織委員会がなんらかの対応をとったとの報道はない。どうしてなんだろう?

やりたい放題、言いたい放題のバッハ会長やコーツ調整委員長。国民感情を無視してまでそれを肯定していると映る政府や組織委員会。ふと思った。日本側はIOCに何かの弱みを握られている、首根っこを捕まえられている事情があるのかもしれない。

IOCが握る日本側の弱み、となると東京五輪招致をめぐる多額のカネの問題が浮かぶ。フランスの警察が日本側による贈収賄容疑で捜査に入ったのを機に当時の竹田恒和JOC会長が事実上辞任に追い込まれたのは記憶に新しい。日本側は否定しているけれど、IOCはそれを覆す材料は持っているような気がした。

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緊急事態宣言の発出にあわせて西村康稔経済再生担当大臣が発したとされる(じっさいは内閣一体となって行ったことが検証されている) 酒の提供停止要請を拒む飲食店の情報を金融機関に流し、順守を働きかけてもらう措置や酒類販売事業者に対し、酒の提供要請に従わない飲食店には、酒類の取引を停止するようにといった呼びかけは、巨視的にみれば新型コロナを機に古典的な自由主義を否定しようとする表れで、撤回と謝罪はあったが自由主義の否定や軽視の傾向はこれからも続くと思われる。

永井荷風「散柳窓夕栄」は諸事倹約の徹底を図る天保の改革のもとであえぐ戯作者や書肆の姿を描いた小説で、なかに戯作者たちがお茶屋に入ったところ、店は謝罪をするばかりの場面がある。

「それじゃ姐さん、酒も肴も出来ねえと云いなさるんだね」

「出来ない何のと申す訳ではございませんが、旦那。実は大変な事になりましたのでございます。」

その大変とは、奉行所の見廻りが時節ちがいの走り物を料理に使っていないかと店の隅々まで検める、次には町方の役人と僧侶がいっしょになってお茶屋へ奉公する女中たちは三か月のうちに親元へ戻せ、そうでない場合は隠れ売女として吉原の女郎とするというわけで実質営業ができなくなっている。

ここのところを読んで思わず「 旦那。実は大変な事になりましたのでございます。西村とかいうお奉行が酒肴を出す店には金を回すなと両替商や質屋に命じたのでございますよ」「阿漕な奴だな」とのセリフが浮かんだ。

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七月二十二日に二回目の接種(ファイザー)をした。テレビにはわたしと同世代とおぼしき高齢者が、これでひと安心とか、肩の荷が下りましたと笑顔でおっしゃっている姿が映っていて、自分もあんなにハッピーになれたらよいのにと思わないでもないが接種後の死亡者の数を知るとそんな気になれない。不安や危惧を覚えながら接種した方もいるはずだがその声はテレビに反映されない。

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十月十七日開催予定の東京マラソンの参加権を得た。海外からの一般参加者がいなくなったためにだいぶん出場しやすくなっているようだ。出走できるのはうれしいけれど、感染状況によっては延期や中止もあるかもしれない。落選したといっては嘆き、当選したらこんどは開催できるのかと心配する。難儀なことである。

スポーツではラグビーが好きで、オールブラックスニュージーランド)vsスプリングボクス(南ア)のテストマッチを家族四人でニュージーランドオークランドに出かけて観戦したこともあったが、無職渡世となってからはお誘いがあれば秩父宮ラグビー場へごいっしょさせていただく程度でテレビ観戦をもっぱらとしている。何事も安上がりで満足するのは下流年金生活者の流儀である。

観戦するにしてもむやみに興奮する者ではない。ラグビーが好きで一貫して応援するチームはあるが熱狂的ではなく、ファナティックなファンの姿については理解できない。対象への思い入れが足りないのかもしれないけれど、幸か不幸かそれが自分のメンタリティというものだろう。それよりも自分が身体を動かし、それなりの満足を得たいのだから世話はない。欲望を抑え、安上がりに生きていけるよう育ててくれた両親に感謝である。

それでもマラソンについてはお金を払ってでも出走したい。できれば海外のレースにも参加したい。かくて世の中はバランスがとれているわけだ。

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 Twitterでときどきやりとりしているハンドルネーム、かつおくんが一読素晴らしい二篇の超短編小説をツイートしてくれていた。

〈社内接種は医務室のナース達が注射担当。その内の1人は以前から人間ドック絡みの生活指導で俺の宿敵のような女(ひと)だが、自分の注射相手の列の中に俺を認めた時にマスクの上の目に冷たい笑みが一瞬浮かんだ「ように見えた」。「久しぶりですねカツオさん」とあっさり痛くなく打ってくれたけど。〉

〈駅へ向かう歩道橋の上で、マスクの上の目元が山本美月に似てるチャリの女性とスレ違いざまに目が合うなとフト気になったらチャックが開いてた。暑さでボケてる。〉

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私は東京在住の高齢者として感染症のリスクはできるだけ少ないのが望ましく、オリパラ開催には反対だった。いまはバブルの中で完結して害が及ばないよう願いながら、種目を選んでテレビ観戦しているけれど、一部に、こうした態度は手のひら返しだとしてよろしくないと批判する向きがあるそうで驚いた。

オリパラには反対だけど、最高意思決定機関がこぞって開催に決めたから座標は変わった。その座標でそれなりに楽しむのは悪いこととは思わない。もちろんこれまでの経緯から、オリパラ開催の結果がどうだったかは大会期間中であっても注視しなければならない。五輪が終わればそちら専一となるかもね。

日本共産党宮本顕治が風雪十二年、転向という、いま云うところの、手のひら返しをしなかったのは強固な信念とともに官憲の弾圧に屈しない体力があったからだと思う。信念はあっても体力がないともたない。手のひら返しは絶対いけないと考える人は、おそらく宮本顕治のタイプが好きなんだろうな。

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七月二十五日 山梨県教育委員会幹部らが十二人で昼食付きのゴルフをしていたと報じられていた。参加した幹部は「東京オリンピックが感染対策を徹底して実施されている。対策すれば、同じスポーツのゴルフも開催していいのではと判断した」と釈明した。これは手のひら返しじゃなく、逆手に取るというのかな。

昔、永井荷風は、芸者買いは社会研究の名目を以てすればよい、下手な小説を書いて原稿料を貪りたい向きは人道の為め、正義の為と叫んでおけと教えた。(「偏奇館漫録」)。山梨県教委幹部連中のゴルフは人類が新型コロナに勝った証としての五輪を後押しするためだったとでも言い張ってみたら如何か。

ことわざに云う、神へも物は申しがら。「東京オリンピックが感染対策を徹底して実施されている。対策すれば、同じスポーツのゴルフも開催していいのではと判断した」は申しがらとしては悪くないと思う。教委の先生方は学校の先生を指導する先生で、この人たちも政府の言うこと聞かなくなっているんだ。

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七月三十一日。自民党河村建夫官房長官が「五輪がなかったら国民の不満は我々に向き、我々は厳しい選挙を戦うことになっていた」「五輪での日本選手の活躍は、我々にとって選挙の大きな追い風になる」などと語り、東京五輪強行開催は秋の総選挙に向けての自民党の戦略だったとの認識を示した。自民党の先生方にとって五輪のアスリートたちは弾よけだったわけだ。

世界のアスリートたちを利用する根性はたいしたもので「安全安心」は目くらましにすぎないと知った。何でも見てやろうにたいする何でも利用してやろうで、 海千山千のふるつわものがときにこうしたホンネをこぼすのは政治の勉強になる。

擬制という言葉がある。実質は違うのに、そう見なす、見せかけることをいう。河村氏のアスリート弾よけ論は図らずも自民党が「平和の祭典」を擬制としていることを明らかにした。なぜかミネラルのない偽の塩をきかせまくった料理が浮かんだ。いっぽう野党のオリパラ反対論は人工甘味料に見えなくもない。

「読み飛ばし」についての考察

八月六日、菅義偉首相は広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式でのあいさつで 広島市を「ひろまし」、原爆を「げんぱつ」といいまちがえたうえに「読み飛ばし」であいさつの一部を意味不明にしてしまった。

同日夜、わたしは犯罪組織を検挙するためフライドチキン屋に扮した麻薬捜査班の奮闘を描いた韓流アクション・コメディ「エクストリーム・ジョブ」を楽しく見ていて、ちょいとひと休みとニュースをチェックしたところで出来事を知った。失礼ではあったが式典の意義は承知しながらも映画以上に笑ってしまった。というのも呆れてしまい、咎めだてする気力はなく、そこへ笑いが到来したのである。

元公立高校の校長の某氏が、学校行事はいろいろあってもいちばん緊張するのは入学式と卒業式の式辞で、絶対にまちがいがあってはならぬからこのときは折り畳み式辞用紙に、自分なりに練った文案を心して書く、その過程があるからつつがなく終えたときは心底ほっとすると語っていた。入学式や卒業式の式辞で校長がいいまちがいを重ね、読み飛ばしなどしたら生徒、保護者はがっかりするだろう。

式典でのいいまちがいや読み飛ばしはときに人の心を逆撫でし、傷つけもする。過ちは起こりうると自覚し、それを防ぐために細心の心配りが求められる。あいさつや式辞を軽んじてはいけない。

 

この読み飛ばしについて、政府関係者は原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたためで、「完全に事務方のミスだ」と釈明した。原稿は複数枚の紙をつなぎ合わせ、蛇腹状にしていた。つなぎ目にはのりを使用しており、蛇腹にして持ち運ぶ際に一部がくっついたとみられ、めくることができない状態になっていたという。首相を擁護したつもりだろうが、事前に目を通していなかったことを窺わせる話でもある。

役所勤めだったころ、わたしもあいさつ文をつくったことがある。文を起案し、決済を得て、蛇腹状のかたちで完成させる。B5判もしくはA4判用紙を横置き、縦書きとして一枚あたりの行数を決め、印刷機にかける。 行間を定規に沿って千枚通しの先を軽くあてて折目をつけ、端を調整してのりしろとし、次にくる紙の端とのりづけしてつないでゆく。つなぎ目で少しでもずれると斜めになって不恰好になる。自分が読むのであれば目をつむるが、読むのはエライさんだからずいぶん気を遣った。およそ三十年前の話で、どんくさい、日本のわたしは大変難渋した。

菅首相のあいさつ文もわたしが体験したやり方でつくられていたようだが、それにしてもえらく古いやり方を踏襲している。いまは蛇腹状つまり折り畳みの式辞用紙に直接印字できるようになっていて、わたしがそれを知ったのは二十年ほど前だった。折り畳みの用紙を手にして読むのだが、エライさんではないから自分でつくらなければならない。ワープロ、パソコン、印刷機の性能はずいぶん向上したから、糊で貼り合わせるなんてやり方ではなく、より合理的な方法があるはずだと情報を集めているうちに新しい方法を知った。これだとのりを使わないから今回の菅首相の事件は起こりようがなかった。ただわたしは首相のあいさつ文はつなぎ目がのりで開かなかったのではなく担当の職員が一枚飛ばしてのり付けしていた超怠慢の可能性も捨て切れていない。

しばしばIT関連での政府の整備の遅れが指摘されるが、それどころではなく、式辞の読み飛ばしからは国の旧態依然の仕事ぶりが見えてくる。

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以下余談ながら、ワープロ以前だと職場の能書家が折り畳み用紙に直接書いていたから字の上手な人は貴重だった。

役所勤めだったころ、スポーツ関係で書道を習っている方がいた。競技終了後すぐ表彰状に名前や順位を書かなければならないとなると下手な字は書けない。いまはパソコンで対応できているだろう。

(写真はマルアイオンラインより)