『大日本帝国の興亡』を読みながら

リディア・ケイン、ネイト・ピーターセン『世にも危険な医療の世界史』(福井久美子訳文藝春秋)という本の書評に歴史家の磯田道史氏が「本当の医療の歴史は、試行錯誤と失敗の歴史であった。とんでもない『インチキ療法』が、とめどなく開発される。悲しいことに、人はそれを信じる。『生きたい』と切に思うから、その人体実験に参加せざるを得なかった。そして、死体の山が築かれ、結果として、比較的、害が少なく、効果のある『療法』が発見されて、それが生き残り、今日の医学体系となっている」と書いていた。

新型コロナウイルスについても詐欺や悪質商法に注意するよう警察や厚労省自治体等が警告を発していて、マスクや消毒液が不足すればそこに付け込んだ手口が使われ、給付金が話題になれば騙しとろうとする連中が出没する。いずれ感染が落ち着いたら新たなインチキ療法やトンデモ話、異聞奇譚を読んでみたい。

そこで比較的、害が少なく、効果のあるほうの話になる。感染症対策の切り札であるワクチン接種にも少数ながらトラブルはあり、接種への不安や疑問はないわけではない。けれど、退職してから毎年行っていた海外旅行が二0一九年の暮れにマルタ共和国へ旅行したあと途絶えたままで、早く海外へ行きたいなら接種はしないの選択はありえない。ワクチンの普及により海外旅行ができる日が来るよう期待している。          

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濵田研吾『俳優と戦争と活字』(ちくま文庫)を読んでいる。著者が博捜した役者たちの十五年戦争についての記録や回想を紹介また考察した好著で、読みながら一九五0年 (昭和二十五年)生まれのわたしは米穀通帳やラジオのたずね人の時間をなつかしんだり、思い出の人びとの生没年をみながらあれこれ感慨にふけっている。

宮口精二(一九一三~一九八五)、享年七十二、いまのわたしとさほど変わらないじゃないか。

浪花千栄子(一九0七~一九七三)、加東大介(一九一一~一九七五)はもっと長生きしていると思っていたのに六十代で亡くなっていたのか。 

わたしは浪花千栄子花菱アチャコのラジオドラマ「お父さんはお人好し」をリアルタイムで聞いているのだからもう古老だな。 

千秋実(一九一一~一九九九)は加東大介とおなじ年の生まれだったのか、加藤が亡くなった年に千秋は脳内出血で倒れ、懸命のリハビリで再起したんだ、などなど。

むかし、わたしと妻、小学生の子供二人で「七人の侍」をみたときのこと、日本映画最高傑作のひとつをぜひという両親の教育的配慮だったのに、映画館を出ると子供が、七人の見分けがつかない、みんなおんなじなどという。宮口精二千秋実加東大介との区別がつかない!わが子ながらこの人たちとこれから長くつきあうのかとため息を洩らしそうになったが、いまはアイドルと呼ばれる人たちがみんなおなじで見分けがつかない自分がいる。

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濵田研吾『俳優と戦争と活字』に写真集『女優 山田五十鈴』が取り上げられている。

「二0一八(平成三十)年三月、山田五十鈴(1917~2012)の七回忌を兼ねて、写真集『女優 山田五十鈴』(集英社インターナショナル)が自費出版された。責任編集の美馬勇作は、高知の呉服店『ごふく美馬』の主人である。A4版上製、四百十六ページ、限定千二百部で、定価は八千円(税別)」

「中学を卒業するころ、便箋十三枚におよぶファンレターを出した。数日後、マネージャーの代筆で返事が届く。上京した美馬は、舞台『三味線お千代』(東京宝塚劇場、一九八六年)を観劇し、楽屋を訪ねた。高校一年生のときだ。それから山田がなくなるまでの三十二年間、『山田先生』と呼び、慕った」。

写真集の編者美馬勇作氏と面識はないが氏と山田五十鈴の話は氏の伯父にあたる美馬敏男氏からお聞きしていた。氏はわたしが尊敬しまたお世話になった方で、亡くなって四半世紀余が経つからずいぶんまえのことだ。『俳優と戦争と活字』であのときの話がいま『女優 山田五十鈴』に実を結んだと知った。

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政治家の会食をめぐる問題が噴出している。国会では歴代総務大臣総務省幹部と接待する側のNTTや東北新社との会食が問題となっているが、精査すれば他の省庁にも飛び火するのではないか。

こうした問題になると決まって、酒が入らないと忌憚のない意見交換ができないなどという輩が登場するけれど、それよりも酒と料理は癒着のカナメとするほうがはるかに納得できる。意見交換は勤務時間にやればよろしい。大人数の政治資金パーティーから、接待という名の少人数の会食まで政治と酒食をめぐる話題はまことに不愉快である。

仕事に酒料理を絡めるな、会食での話はオフィスで十分、誘うほうも誘われるほうもいい加減にせよ。それでも大臣規範や公務員倫理にこだわっていてはタダで美味しいご馳走にありつけない、バレたらそのときのこと、会費を後払いして、問題なしと開き直って恬として恥じないのは下賤の極みである。

「風俗時勢の新旧を問はず宴会といふものほど迷惑千万なるはなし同じく飲む酒も親しき友二三人と騒がしからぬ旗亭に対酌すれば夜廻の打つ拍子木にもう火をおとしますと女中が知らせを恨むほどなるに、百畳にも近き大広間に酔客と芸者の立ちつ座りつする塵煙、灯火に朦々として人の顔さへ見へわかぬが中に、諸君我輩の叫声に耳を掩ひつつ干ものの如き塩焼の肴打眺めて坐する浮世の義理また辛しといふべし。幸田露伴先生宴会の愚劣なるを痛罵して鴆毒なりと言はれし」。(永井荷風「桑中喜語」)

鴆とは猛毒をもつ想像上の鳥で、鴆毒とはその毒をいうのだが、まあ砒素とでも解して差し支えない。酒と料理に毒はなくても宴会を政治の一環に組み込んでいるうちに日本の民主主義の体内へ鴆毒は廻る。

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散歩で団子坂を下りて不忍通りを渡り、谷中の三崎坂をあるいているうちに久しぶりに鈴木春信と笠森お仙の石碑のある大圓寺に寄せていただいた。

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建碑のきっかけは大正八年(一九一九年)に鈴木春信没後百五十年の法要を有志が行おうとしたことで、いろんな経緯ののち大圓寺への設置となった。お仙の碑文は永井荷風が書いていて『断腸亭日乗』大正八年六月十日の記事にみえている。

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「女ならでは夜の明けぬ、日の本の名物、五大州に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとどめて百五十有余年、嬌名今に高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年夏六月滅法鰹のうめい頃荷風小史識」

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お仙の碑文はほとんど読めなくなっていて、石に刻んでも百年経つとさすがにきびしい。 

はじめ荷風は「徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず」としていたが歴史家また俳人だった笹川臨風の勧めで応じた。なお大圓寺の碑文は『断腸亭日乗』のそれとは若干の異同がある。

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笠森お仙はここ谷中の笠森稲荷門前の水茶屋、鍵屋で働いていた看板娘、稲荷のやしろの前にしだれ桜が植わり、大田南畝に「ひもろぎの団子のくしをさしかざせしだれ桜の花のかさもり」がある。

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何年かまえ、吉田健一ワールドを彷徨するうち大久保利通の子息で吉田の祖父の牧野伸顕回顧録』を読み、その勢いであの時代に英米との協調を主張し続けた牧野と西園寺公望という両巨頭についてもっと知りたいと原田熊雄『西園寺公と政局』を読んだ。

西園寺没後の政治史は戦史の比重が増し、戦争の過程にはあまり関心がなくてそのままになっている。いちど大岡昇平『レイテ戦記』にチャレンジしてみたが太平洋戦争の全局をわかっていない者がレイテだけに集中するのは無理があり挫折した。

そうしたことが気になっていたところへことし一月十二日に亡くなった半藤一利氏がジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫全五巻)を薦めていたのを知り、本書で戦争の具体的過程に踏み込み、いま三巻目まで来た。一九七一年度ピュリッツァー賞受賞作。その後の研究で訂正しなければならないところもあるはずだが、執筆にあたり当時在世中の関係者にインタビューをしているのは強みで、日米双方への目配りもよい好著である。

同書第一巻にあったちょっとした文明論。

真珠湾攻撃について「一大奇襲で一気に勝負を決するという概念は、日本人の性格にも深く根ざしている。彼らの愛好する文学形式の一つである俳句は、感覚的イメージと直観的に思い浮かんだことを、わずか十七文字の中に歌いこむ詩の一種である。それは規律に従って表現されるぴりっとした諷刺と、日本的仏教の中で追求されてきた知的ひらめきを特徴としている。同じように、柔道、相撲、剣道の結着も、長い準備的な段階の後、一瞬の攻撃によって決するのである」。

はじめて知る所説で、俳句や相撲を生んだ文明は戦争の作戦にまで影響するらしい。

本書を読了したあかつきには『レイテ戦記』への再チャレンジが待っているかもしれない。

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東日本大震災の年の三月末日で定年退職したからことしは三一一と退職の十年目に当たる。

この日は新型コロナと東日本大震災関連のニュースを併せ見なくてはならず、やりきれなくてチャンネルを変えたくなった。それでも見ているうちに安全神話に凭れてはならない、政治家や電力会社のいうがままになっていてはろくなことにならないとあらためて思ったがテレビでは誰もそんなことはいわない。わたしがまちがっているのかな。

この日の東日本大震災の追悼式の式辞には復興五輪という文言はなく、ネットにはそれを非難する投稿が相当数あった。いいじゃありませんか、めくじら立てなくても。もともとオリンピック・パラリンピックに格好をつけるのに復興をちょいと借りただけで、いまは復興をいうより新型コロナ克服の証のほうが見栄えがすると思っているのだろう。

その新型コロナは変異ウィルスという新しい段階に入りそうな様相だがIOCJOC、政府、東京都のエライさんの方面ではオリパラ開催という主戦論がもっぱらである。これまでの投資になるべく傷が付かないよう、テレビ放映がなくなって違約金を取られては大変で、「仁義なき戦い」の山守親分の曰く「ゼニじゃ、ゼニじゃ」なのである。

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日米開戦にあたりヒトラーは駐ドイツ日本大使大島浩に「もし喧嘩好きの隣人が喧嘩を売れば、いかにおだやかな人でも平和に安住できない」というドイツのことわざを引用し、「貴国は正しい宣戦布告をなされた」と述べ、大いに評価した。(ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』)

ヨーロッパ各国にとってナチスドイツこそ喧嘩好きの隣人にほかならないのに、自国は棚上げにして、ヒトラーは日本にとって米国は喧嘩好きの隣人としたのである。

それから八十年、いまはお隣に喧嘩好きがいて、 日本、フィリピン、ベトナム、インド等に領土的野心をむき出しにし、台湾に軍事的経済的圧力を、香港、新疆ウイグル自治区に暴圧をくわえ、札束とコロナワクチン外交で各国を分断し、まともなことをいっているオーストラリアにむやみな関税を課すなどしている。

こうしたなか三月十八日、十九日、アメリカのバイデン政権と中国の習近平指導部の外交トップによる初めての対面での会談がアラスカ州アンカレジで行われた。さすがにノーテンキなわたしも眉を顰めながら喧嘩好きの隣人の動向を注視せざるをえない。

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断腸亭日乗』昭和十六年一月二十八日。「支那は思ふやうに行かぬ故今度は馬来(マレー)人を征伏せむとする心ならんか。彼方をあらし此方をかじり台所中をあらし廻る老鼠の悪戯にも似たらずや」。

太平洋戦争開戦の年のはじめに、荷風が観察した日本軍の姿であり「彼方をあらし此方をかじり台所中をあらし廻る老鼠」という皮肉な記述は近年の中国共産党の動きを彷彿とさせるが、それはともかくうえの荷風日記の前段には「街頭宣伝の立札このごろ南進とやら太平洋政策とやら言ふ文字を用ゐ出したり」とあり「街頭宣伝」からたちどころに軍部の現状を察している。

そういえば、鉄道の高架下に落書があったりすると荷風にはたいへんなことなんですね、と丸谷才一さんが語っていた。街頭宣伝の立札や高架下の落書は荷風に世相観察と批評をもたらす契機だった。その観察が出入りする浅草の小劇場オペラ館に向けられたとき、荷風は舞台に立つ朝鮮から来た舞踊団に国が公開の場所で朝鮮の言葉を用いたり、歌をうたうことを禁じているのを知り、「米国よ。速やかに起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を与へしめよ」と書いた。

と、ここまで来てわが身をかえりみれば、あれやこれやの本をかじり、なんだかんだと書き散らしている老爺なのであった。

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ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』に米軍のフィリピン攻略を前にした日本陸軍の内情がしるされている。それによると、南方軍総司令官寺内寿一は米軍がフィリピンの沿岸に到達する前にわが軍の陸上基地の航空機で米国船団の大部分を撃沈できると信じていた。それに対し現場の地上軍指揮官黒田重徳中将は「着想だけでは戦闘できない。言葉では米艦船を沈められない」、彼我の航空兵力差は明らかだから最終的には地上戦での勝利をめざすべきだ、と訴えた。

日本の航空機で米軍上陸を阻止するのはむつかしいと現実的、合理的な議論をした黒田中将だったが「公務の遂行よりもゴルフや読書、個人的な事柄に多くの時間を使っている」という理由で司令官の地位を解任された。寺内総司令官はまっとうな議論を吟味せず、自分に反対する者を追いやったのである。

黒田重徳中将の「着想だけでは戦闘できない。言葉ではアメリカ艦船を沈められない」という的確な戦局観に比較すると「(原発については)私が安全を保証します。状況はコントロールされています」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として東京で五輪・パラリンピックを開催します」はほとんど妄想の部類に属していて、着想、思いつきと根拠のない言葉に五つの輪はさまよっている。

なお寺内寿一は(一八七九~一九四六)は陸軍大臣内閣総理大臣を歴任した寺内正毅(一八五二~一九一九)の長男で親子二代陸軍大臣、また元帥の任にあった。東京府尋常師範学校附属小学校高等科(いまの中学)では永井壯吉、のちの荷風と同級生で、髪を長くのばしていた壯吉を軟弱だとしていじめた人物である。

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三月二十四日。床屋へ行く道すがら上野公園でほとんど満開の桜をみた。

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過日は白山の本念寺で大田南畝の墓に詣でたものだから、桜大好きな南畝は上野の桜を詠んでいるに違いないと帰宅して調べたところ、以下があった。

「しら雲の上野の花をみてしよりけふもあすかに日ぐらしの里」(日暮里)

「しら雲の上野の花のさかりにはしばし心もはるるうれしさ」

「此春は八重に一重をこきまぜていやが上野の花ざかりかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

新コロ漫筆~医者寒からず・・・

江戸時代の医学書の多くは漢文で書かれていたから、医師志望者は漢文の素養を高めるために四書五経など儒学の古典を学んでいて、医学と儒学は隣り合わせていた。

漢文の医学書といっても内容はすべて東洋医学ではなく、なかには漢訳された西洋の医学書が清国との貿易を通じて日本にも入ってきていた。

江戸時代の西洋医学オランダ語により学ばれただけではなく、蘭学以前に漢訳西洋医学書を通じ西洋医学を探究する漢方医たちがいて、その延長線上でとくに文化文政以後多くの洋学者が輩出したのだった。

おなじく四書五経を学ぶといっても儒者儒学の真髄を学ぶため、医者は漢文の素養を高めて医学を学ぶためだから方向は異なる。しかしなかには儒者を兼ねた医者がいて儒医と呼ばれた。儒者が医者を兼業するのは儒学を教えるだけでは収入が少なく、漢文で医学書を読むことができたから医学にも手を伸ばしたのである。

「医者寒からず儒者寒し」ということわざがある。 おそらく朱子学武家政治の基礎理念とした江戸時代に出来たもので、医者は裕福、学者は貧乏が社会通念であり、儒医の存在はそのことの証となっている。

診察をうけ病気が快癒したよろこびに較べると孔子様の教えの講釈はありがたいけれど見劣りするのは否めず、そこに「寒からず」と「寒し」の差があるわけだ。そして明治以後、儒者は文系の学者となり、学者寒からずの例も多く見うけるようになったが「医者寒からず儒者寒し」という通念は健在であった。

ところがいま新型コロナウイルスが「医者寒からず」を揺さぶり続けている。

二0二0年八月の外来患者数は、二0一九年の同時期と比較して、内科は5.5%、整形外科は5.9%、眼科は3.6、耳鼻咽喉科は16.9%それぞれ減少、小児科にいたっては30.6%の減少となっている。(NHKおはよう日本

新型コロナウイルス感染症の患者が増加すると患者を受け入れている病院は人手不足などから収益を見込める一般患者の受け入れや手術を制限せざるをえない。大阪市立十三市民病院は十八の診療科のある総合病院だったのがコロナ専門病院となった結果、昨年四月十六日以降外来診療や救急診療、手術を順次休止させ、およそ二百人いた入院患者全員を転退院させた。収益の落ち込みは相当なものだろう。この病院では「本来の専門分野の患者を診られないのがつらい」「負担が重すぎる」として十一月末までに医師十人、看護師・看護助手二十二人が退職した。いっぽう感染症患者を受け入れていない病院では受診控えで来院者が大きく減少した。感染者受け入れの有無にかかわらず病院経営に深刻な影響が及んでいる。おのずと医療関係者の所得は減少するから「医者寒からず」なんていっていられない。

「医者寒からず儒者寒し」は医者の社会的、経済的地位を示すことわざとして江戸から明治、大正、昭和、平成、令和のこれまで受け継がれてきた。しかしいまは新型コロナという寒波が医療関係者を襲っていて「医者寒し」の状態にある。コロナ禍が収束したときこのことわざはどんな様相を帯びているだろう。

 

 

 

 

新コロ漫筆~動けば損

晩唐の詩人李商隠は引越しが大好きで、そのため貧乏を通したと聞く。官僚政治家だったが賄賂とかは取らなかったのだろう。

ことわざに「動けば損」という。男女の仲やマネーゲームにも適用されているがどちらともご縁のない老爺としてはズバリ転居、旅行を戒める言葉として受け止めている。

さいわいいまの居宅を終の棲家と思い定める東京大好き人間だから国内旅行は必要なく散歩行楽で十分、ナイトクラブやそのたぐいにも興味はない、レストランへは家族の意向にしたがい連れて行っていただくけれど率先はしない。ご近所にある居酒屋さんが生涯唯一のなじみで、あとは家飲みB級グルメにこよないしあわせを覚えている。

昨年政府は経済を回してゆくためには GoToトラベルやイートは必要だとして実施に踏み切った。人が動くと感染リスクは高まるのは承知していても待ちきれず、早々に中止に追い込まれた。どちらに転んでも「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」の藤原定家に倣っていえばGoToなどわがことではなく、下流年金生活者として吝嗇に努めながら楽しみを追求する。万事安上がりに生きていけるよう育ててくれた父母に感謝しなければならない。

南国土佐に生まれ、月の名所の桂浜で月を愛で、いま忍ぶ忍ばず無縁坂を不忍池のほとりに下りて池にかかる月を見る。月の名所は数あってもこのうえさらに求めようという気はない。

もちろん「動けば損」は感染症対策として心得ている。わたしのばあい新型コロナ禍で映画館へ足を運ぶことが少なくなった。そのぶんNetflixAmazonビデオをこまめにチェックして視聴作品を選んでいる。最近では話題の「愛の不時着」で笑い、中国発ミステリー「バーニング・アイス」に感心した。そして「バーニング・アイス」を昨年三月に録画しながら一年もほったらかしてあったのを反省した。情報収集力は高めなくてはならず、外出自粛にもそれなりの課題はある。

吝嗇に努めるといえば永井荷風が「偏奇館漫録」に「往復葉書にて宴会の通知に接すること毎月多きは十数回に及ぶ事あれども決して返事を出さず。返信用の片ひらはこれを猫婆にして経済の一端となせり」と書いていて、ずいぶんまえに、まねしてみたいなと細君に言ったところ、永井壮吉は荷風を演じているの、あなたがやるとたんなるバカがまねしているだけの話になるとたしなめられた。荷風がやるから格好がつくのであって、才なき男は嘆息するのみである。

ちなみに荷風は、往復はがきにある宴会に出席したとして会費を貯金箱に入れ、後日、玩具春本の類を購入する資金とした。義理とふんどしを欠くこと屁とも思わず、寄附金だってもともと資産家が罪滅ぼしに行うもの、一般国民は収入を隠したりせず税金を納めればそれで十分、「公共事業に寄附金を出すのは愚の骨頂」という。

いっぽうに収入を隠し税金逃れをする輩もいて、そこから賄賂を取り便宜供与を図る政治家官僚もいる世の中では当然のことで、口にはしないけれど、こちらはまねしたいといっても細君に否やはないだろう。

大寒から雨水へ

月二十日。大寒

「受験用写真の不思議な顔寒し」

今井聖のこの句で、先日実施された大学入学共通テストの受験票の写真はマスクなしだっただろう、しかし当日はマスクをしなければならなかったから本人確認はどうやっておこなったのかと首を傾げた。お節介なことではあるけれど。

一九七九年にはじまった大学共通第一次学力試験は一九八九年までおこなわれ、次いで一九九0年から二0二0年までが大学入試センター試験、そしてことしから大学入学共通テスト、いずれも寒の入のあとで実施されているが歳時記では入学試験を春に分類している。

大寒にふさわしいものに火鉢がある。生まれてから小学五年生まで住んだ家に火鉢はあったが転居した家にはなく、なつかしいものとなった。

永井荷風は「矢はずぐさ」に「寔(まこと)に初冬の朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友江戸庵が句に『冬来るやまたなつかしき古火鉢』これ聊かも巧む所なくして然も其の意を盡したる名吟ならずや」と書いている。

江戸庵は俳壇に重きをなすとともに籾山書店を経営した 籾山梓月の俳号。

「春寒や机の下の置炬燵」「江戸庵句集」より。

荷風が「三田文学」を創刊したときは籾山書店 が販売を引き受けるなど両者の関係は深く、荷風は 梓月の画帳に丸火鉢の絵を描き「折りかゞむ背中もやがて丸火鉢/かどのとれたる老を待つかな」と寄せている。

わたしが荷風から教えられた美を樹木草花を別にして列挙すると、火鉢、障子、路地、物干台、侘住居、簾などがあり、さながら小津安二郎の映画のようである。

おなじく「矢はずぐさ」に「誰か鮪の刺身を赤き九谷の皿に盛り新漬の香物を蒔絵の椀に盛るものあらんや」とあり、荷風は九谷の皿、蒔絵の椀の絢爛華麗のみを美とする風潮に敢然異を唱えた。また「毎月見聞録」大正六年五月十五日の記事に「箒庵主人公の談にいふ今の買手は好事家にあらずして成金なれば、一方には一品十万円を超ゆる高値をも出し、他方には梁楷の寒山拾得といへるが如き雅致あるものよりも元信の大滝の如き花やかなるもの却て売行よろしきなりと」と書いた。いうまでもなくこれは、「裏町を行かう、横道を歩まう」(『日和下駄』)と裏町、横町の魅力を讃えた態度に通じている。

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二月一日。深夜まで銀座のクラブなどで興じていた三人の自民党議員が離党した。これに先立って二階幹事長は離党勧告を、また菅首相は遺憾だと陳謝した。昨年末に首相、幹事長らがガイドラインを上回る人数で銀座のステーキ店で飲み会をしていたことを思えば、目くそ鼻くそを嗤うの典型的事例で、あのときは「一律に禁じたものではない」と擁護した大臣がいたが今回はそうした声はなかった。

よい機会だから目くそ鼻くその英語表現をみると「The pot calling the kettle black」(鍋がやかんを黒いと言う)があった。中国語をみると「烏鴉笑猪黒」(カラスが黒豚を笑う)や「秃子笑和尚」(ハゲが和尚を笑う)などがあった。比較してわが日本の、目くそ鼻くそは秀逸である。

わたしは外出自粛を苦にしていないから、議員の先生方が深夜のクラブで飲み戯れていてもお前たちだけがどうして、といった気にはならないけれど、立法府の人さえ守ろうとしないルールや緊急事態宣言は止してはどうかという気にはなる。

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転勤や子供の成長、単身赴任を含め何度か転居した。そしていま住む家を終の棲家と思い定めている。高齢者用施設でお世話になることのないよう願いながら。

この地に生まれ育った者ではなく、お世話してくださる方がいて、東京でいちばんお気に入りの地域に住めているのはかけがえのないしあわせである。そのお世話してくださった方が昨年末八十六歳で亡くなり、あらためて感謝するとともにご冥福をお祈りした。

五十代半ばで購入し、ローンは組まなかったから貯金はほぼ底をつきスッカラカンとなった。不安ではあったが退職までを考えるとギリギリの選択だった。

緊急事態宣言のもと、狭いながらも楽しいわが家で外出自粛に努めている。

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ジョン・グリシャムグレート・ギャツビーを追え』(村上春樹訳)を机に置き、さあ、とりかかろうとしたところ、F・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』をまだ読んでいなくて、こういう機会じゃないとご縁がないままになるかもしれないと、計画変更しておなじく村上訳の同書を手にして二日で一気読みし、ついでロバート・レッドフォードレオナルド・ディカプリオが主演した新旧の「華麗なるギャツビー」を再見し、物語とともに狂乱の二十年代のムードを堪能した。

ギャツビーの切ない恋心。彼とニックの友情はレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』を想起させる。丸谷才一フィリップ・マーロウは女性にたいするときよりも男性にたいするときはるかに優しい、男性に対する友情の深さを指摘していて、『グレート・ギャツビー』の語り手であるニックにもおなじことを感じた。

ちなみに村上氏は人生でめぐり会った重要な本として本書、『長いお別れ』、『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。

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永井荷風の東京散策記『日和下駄』に、お稲荷さまに油揚げを奉納するといった民間信仰を扱った「淫祠」という一章があり、なかで紹介されている「こんにゃく閻魔」と「ほうろく地蔵」を廻った。

前者は小石川の源覚寺にあり、眼病治癒の閻魔さまとして知られる。目を治してもらった婆さんがこんにゃくが好きで閻魔さまに好物を捧げたのがはじまりだとか。

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後者は本駒込大圓寺にあり八百屋お七を供養するためのお地蔵さま。お七のために熱したほうろく(浅い素焼きの土鍋)をかぶって焦熱の苦しみを受けているお地蔵さまは首から上の病気平癒に霊験ありといわれたくさんのほうろくが捧げられている。

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なお同寺には幕末の砲術家高島秋帆、「筆は一本なり、箸は二本なり。衆寡敵せずと知るべし」の斎藤緑雨のお墓があり、墓前で手を合わせた。

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グレート・ギャツビー』のあとジョン・グリシャムグレート・ギャツビーを追え』(村上春樹訳)をこちらも一気読みした。二0二一年はじめてのミステリーだ。

作者は弁護士経験を活かしたリーガル・サスペンスの諸作品で知られており、わたしもいくつか読んでいるが法廷もの以外の作品は本書がはじめてだった。

プリンストン大学に厳重保存されているスコット・フィッツジェラルドの長篇小説五作の原稿が盗難に遭い、まもなく犯人グループの一部は逮捕されたが原稿と首謀者は忽然と消えた。原稿を追うのはFBI、貴重盗難物の追跡返還を業務とする企業。ターゲットはカミノ島で独立系書店を営むブルース・ケーブル。

お宝追跡の企業は島の出身でスランプにある女性作家マーサー・マンを雇い、店主を探らせ、読者は犯罪の追及ともうひとつ店主と作家の関係の行方を追って頁を繰ることになる。

訳者の村上春樹氏はポーランドを旅行中クラクフの書店で目にした『CAMINO ISLAND』の裏表紙にある要約でスコット・フィッツジェラルドの原稿を素材とする作品と知ったそうだ。『グレート・ギャツビー』の訳者として興味津々だったはずだが原題から『グレート・ギャツビー』が関係しているなんて想像もつかなかっただろう。教訓、本の帯(腰巻)や内容要約をおろそかにしてはいけない。

訳者あとがきに村上氏は「この本はミステリー・ファンにも、本好きの人たちにも、また本格的なブック・コレクターの人たちにもたっぷり楽しんでいただけるのではないかと思う」「結局のところ人生なんて、時間をどのように無駄に費やしていくかという過程の集積に過ぎないのだから」と書いている。その過程にはお楽しみがたくさんあってほしいものだ。

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二月十三日。10キロヴァーチャルマラソンに参加し、結果は57:41、456/912だった。偶然ながらちょうど真ん中というのはめずらしい。五時~八時営業の行きつけのお店でたった一人の慰労会と家飲みのあと、心地よい疲れと、美味しい料理と酒で爆睡し、二十三時七分頃福島県沖を震源として発生したマグニチュード7.3の地震を朝になって知った。四字熟語で申せば羽化登仙しているうちに遺憾千万なことが起こっていたのだった。

ラソンといえば藤井聡太二冠が聖火ランナーを辞退した。関係者によると、五輪が延期になり先の見通しも立たないことが理由で、大会組織委員会森喜朗会長の発言とは関係がないとのことだ。

盤上ではどれほど先を読んでいるのだろう。その藤井二冠に「先の見通しも立たない」といわれた相手に指手はないな、と思わずにやりとした。

ついでながら問題となった森会長の会議での挨拶、ふつうは事務方が原稿を作ってあると承知しているが、そうしても現場では読まずに自分で喋る方はいるから森氏もそうされたのだろうか。だとすれば、原稿を棒読みする首相、原稿作っても関係なく持論を口にして失脚した会長の好一対である。

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二月十五日。家にいて雨がいつ止んだかわからなかったが午後五時ごろ外に出て弥生坂を上がっているうち雨上がりのさわやかな空気につつまれた。わたしはお目にかかれなかったが虹が出て、くっきりとした虹の外側には色の並びが反対の虹(副虹)がみられたそうだ。俳句では春を虹のはじまりとする。ことしの初虹だったか。

永井荷風は明治政府の顕官となった九州の元足軽風情が東京をいじくって困るとか、どこかしこに銅像を建てて美観を損ねるとかよく文句を書きつけているが、ときに雨上がりの空に虹の懸かるのをみて「住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思ふは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり」と「夕立」という随筆にしるしている。

雨上がりは雨が町の塵を流し、冷爽な空気をもたらし、心の塵も流してくれた気がする。

「激しい夕立がすべてを洗い尽くしてやんだ後、雲間から洩れる光の中に忽然と浮び出る七彩の弧──虹の立つところに野も山も海も目覚めるばかり鮮やかな景となる」。現実は苦しくても虹は「瞬間的にもせよ美しいロマンの花」である。(水原秋櫻子『俳句歳時記 )。地震被災地にも虹の出てあれかし。

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二月十八日。きょうは大寒か、と書いたのはつい昨日のような気がしていたらはや雨水を迎えた。大雪で大わらわの地方については承知しているが、歳時記のうえでは、草木が芽生えるころ、空から降るものが雪から雨に変わり、氷が溶けて水になる日である。二十四節気のつぎは冬籠の虫が這い出る啓蟄でことしは三月五日。春を待ちつつ、大雪と感染状況の好転を願っている。

東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会会長に橋本聖子氏が就任した。その前段では小池都知事がバッハ会長、森会長、橋本大臣との会議はポジティブなメッセージは発出できないので欠席するとブチ上げた。

感染症対策での評価は見極めがつかないけれど騒動を起こして人目を引くのは上手だなあ。騒動師としての資質をお持ちなんだろう。

森喜朗前会長については、あれほどの差別発言やらかしてなお自民党内では余人をもって代えがたいと、続投を希望する声が大きかったと聞くけれど、お家柄や血統の問題じゃあるまいし新陳代謝は世のならい、海千山千のふるつわものはいくらでもいる。橋本新会長、大丈夫だ。

退職して念願の無職渡世に就いた?際はかたじけなくも周囲の再就職をめぐる光景を眺めていた。すると下取りの効くのと、そうでもないのがよくわかる。仕事がよくできるから下取りが効くとは限らない。下手にポストが上だと煙たがられる傾向もある。

前会長はどこかが下取りするのかしら?

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「物美なれば其虫いよいよ醜く事利あれば此に伴ふの害いよいよ大なり。聖代武を尚べば官に苛酷の吏を出し文を尚べば家に放蕩の児を生ず倶に免れがたし」(永井荷風「偏奇館漫録」)。

「事利あれば此に伴ふの害いよいよ大」にオリンピック・パラリンピックを思う。いよいよ大なる害をともなう利は真の利ではなく「予め害を除くの道を知らずんばいかでか真の利を得んや」なのだ。

「吏は役に立たぬものなり慾の深いものなり賄賂を取りたがるものなり。責むるは野暮なり。いくら取替へても同じことなり」。

遅船庵、驥尾に付して曰く「吏は都合の悪いことはすぐ忘れたと云ふものなり」「総理大臣の嫁、官房長官の息子に弱いものなり。会食で奢られた見返りに便宜を供与するものなり」

宰相に清廉なるは少なしとは昔からいわれたことながら、安倍、菅とひどい状況が続く。絶対多数の与党のもとで悪事が横行しているのだから処方箋は与野党勢力拮抗の状況を作り出すことにあるが、いまの野党のありようでは望みは薄い。この世は煩悩にまみれた世界とはいえど無宗教のわたしは厭離穢土、この穢れた国土を厭い離れるというわけにはまいらない。やれやれ。

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NHKBSPで放送のあった「花のあと」をみた。藤沢周平原作の映画は抜かりなくみてきたつもりだったがこの作品は知らなかった。そしてこれまでの映画とおなじく満足だった。なかでヒロイン(北川景子)の許婚役の甲本雅裕がのちに昼行灯といわれながら筆頭家老を務める、その若き日の役がいかにもという感じで味よし。

藤沢作品を多く読んだのは四十代だった。全集を買い揃えようかとまで思ったが他にも読みたい本は多くそこまでは進めなかった。とにかく手に取る本いずれも当たり外れがなく、そのことは映画にも及んでいる。

藤沢作品を原作とした映画で最初にみたのは「たそがれ清兵衛」だったと記憶する。原作に、お勤めが終わるとそそくさと下城する清兵衛を問題視する上役陣のなかで、いたずらに城に残るのがよいとは思わぬ、清兵衛のような者がいるのもよいではないかと擁護する上役もいたとあり、荻生徂徠が『政談』で、用事もないのにあるような素振りをみせてだらだらと城に残る上役陣を批判していて、海坂藩の清兵衛をかばった上役は徂徠学派の方だったと徂徠ファンのわたしは確信した。

 

 

 

 

 

 

 

十年目の三一一に小沢信男氏を悼む

元禄十一年(一六九八年)八月、隅田川に長さ百十間(約二百メートル)の大橋が架けられ、永代橋と名付けられた。場所は深川の渡しがあったところでいまの橋よりも百メートルほど上流にあった。

「つく田島つくづく月をながむればかたぶく秋の長きよのはし」(大田南畝

このめでたい名前をもつ橋が、文化四年八月十九日(西洋暦では一八0七年九月二十日)徳川十一代将軍家斉のとき崩落し、大事故となった。

当日は富岡八幡宮の十二年ぶりの大祭に大勢が繰り出した。このとき公方様の御座船が永代橋をくぐるので橋はいったん通行止になった。船が橋の下を通り過ぎ、東西の橋詰が同時に解禁されるとあまたの人たちが橋上でかち合い、その圧力で橋の中ほどが崩れ落ち、あとから押し寄せてきた人たちも落下し千四百余名が落命した。

この出来事で「長きよのはし」と讃えた太田南畝は「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」と詠まなければならなかった。

永井荷風大田南畝年譜」によるとこの日(荷風は八月十五日と誤記している)南畝は船に乗り間部河岸(まなべがし、現中央区日本橋浜町一丁目)まで来たとき橋の落ちたのを知った。

東日本大震災が起きたのはそれから二百年あまりのちの二0一一年三月十一日。

永代橋崩落と福島原発事故を見据え、小沢信男は『俳句世がたり』(岩波新書)に「そうか。永代とは、安全神話のたぐいであったのか。してみれば、この地震列島に原発を五十四基も、交付金をばらまいて建てならべ、あげくに福島原発が崩壊して、家郷を追われた人々が十四万人。蜀山人の嘆きが、百倍にもなってこんにちに届くようです」と卓見を述べた。

こうして太田南畝と小沢信男の嘆きは時空を超えてリンクしたのだった。

 

先日、小沢信男氏の訃報に接した。三月三日、享年九十三。

よく谷中にあるご自宅の前をジョギングするがお見かけしたことはない。まえから気になっている作家だがほんのわずかしか読んでいない。ただし名コラム集『俳句世がたり』は韋編三絶とはいわないけれどしばしば頁を繰っている。これからも本書を開く機会は多いだろう。そしてはやく他の著作にも親しみたい。

 

 

 

 

 

 

 

新コロ漫筆~「行蔵は我に存す」

反共タカ派ニクソン大統領はベトナム戦争に終止符を打ち、中国と国交を結び、消費税反対だった村山富市首相は税率引き上げを認め、東京オリンピックパラリンピック組織委員会会長森喜朗氏はわが国を神の国と讃える超のつく国威発揚論者だが二月三日の日本オリンピック委員会JOC)臨時評議委員会での女性差別発言により「東京五輪会長の国家的な性差別主義の恥」( 英紙フィナンシャル・タイムズ)といった批判を受けずいぶんと国の評判を落とした。いずれもときに政治家は自身の信念とは真逆のことをしたり、結果をもたらしたりする事例である。

その発言は「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。(中略)発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります」「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、七人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです」といったもので国威はともかく気分感情は大いに発揚したとおぼしい。

まさか与太話をするために会議に出席されたのではあるまい。だからわたしは発言は自身の持論を述べたと理解している。

ところが一夜明けると謝罪、撤回してしまった。ほんとにそれでよかったのか。ひょっとして発言への批判にわけがわからず閉口しながら謝罪会見に臨まれたのかもしれない。いずれにせよ安易な謝罪、撤回、世論への迎合より自身の考え方や発言についてより詳しく説明することが大事だったと思う。ファシズム共産主義の国家とは違いそれが出来るのが自由主義国家の優れたところだ。

これまで経験し、考え、信じてきたことを一夜明けて撤回するなど粉飾としか見えず、わずかな時間の反省などしょせん大したものではない。しかも後日の辞任表明では「私どもとしては、あくまでオリンピック、パラリンピックを開催するという強い方針で、今、準備を進めていた矢先でありまして、そういう中で会長である私が余計なことを申し上げたのか、まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして」とまで述べているのである。

「行蔵は我に存す。毀誉は人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」(自身の行いは自らの信念によるものである。貶したり褒めたりは人の勝手であり、私は関与しない)。

福沢諭吉が元幕臣でありながら明治政府に出仕した勝海舟榎本武揚に批判を加えた「痩せ我慢の説」に対する勝海舟の返事で、森氏はこれを体現できる貴重な機会を逸したのを氏のために悔やむ。真意や詳しい説明をうかがっても氏の所説には賛成できないとしても信念に殉じる姿勢には共感を覚えたかもしれない。説には反対しても節は讃えたかもしれない。

結果は「行蔵は我に存す」を示さぬまま森氏は「政治家としての経験を生かした最後のご奉公として今までやってきた」会長職を辞任した。巨視的には新型コロナに翻弄され屈してしまった。

山縣有朋が亡くなった際、石橋湛山は「死もまた社会奉仕」という評論を書いた。個人の死の悲しみとは別に、社会に新陳代謝は不可欠、との趣旨だ。森氏には、会長の交代、新陳代謝もまたご奉公であると言葉を贈りたい。

 

附記

はじめて聞く名前だったが、ロンドンブーツの田村淳という方が、森会長が聖火ランナーの密集対策について言及した際に「有名人は田んぼ(の沿道)を走ったらいいんじゃないか」などと発言したのに反発し「聖火ランナーを辞退させていただこうと思っております。正式ルートできちんと事務所を通じて事務局の方には伝えました」と表明した。えらいもんだなぁ、『たった一人の反乱』(丸谷才一の小説)じゃないかと目を見張った。たった一人の強さ!いずれ芸も見てみたい。

新コロ漫筆〜余録

ことし二0二一年一月十八日に召集された通常国会では新型コロナ感染症対策とともに総務省の幹部職員と、利害関係者にあたる東北新社に勤める菅首相の長男たちとの会席が大きな問題となっていて、放送事業の許認可権を持つ総務省にたいし、東北新社側が接待攻勢をおこなっていた実態の一端が文春砲で明るみにされた結果、行政が歪められた可能性が取りざたされている。

新コロ漫筆は表題通りコロナ関連以外には触れないつもりだったが、せっかくおなじ国会で論議を呼んでいるもうひとつの問題に言及しないのは、ひとこと言いたい症候群の身にはあまりにもったいない。余録とした所以である。

想像ではあるけれど、首相の息子からのお誘いを利害関係者だからと断れば親父に睨まれて人事で報復されるかもしれず、応じれば応じたで文春砲に睨まれ、週刊誌で報道され処分を受ける、総務省のお役人たちには難儀なことである。

ずいぶん昔となったがわたしは平成四年(一九九二年)四月から七年間お役所に勤めた。現在はどうかわからないが、その当時いやだったのは宴席の多いことで、企業や団体(念のため利害関係者ではないと言い添えておきます)とのつきあい、退職者を含む業界ネットワークに組み込まれたさまざまな会、知り合いならともかく、付き合いはなく名前と顔を知るだけの方の表彰、叙勲の祝賀など、またエライさんには盃に手を添えて差し出さねばならず、そんなことを含め辟易してしまい、それまでは別に宴会を嫌いではなかったが一気にいやになった。

仕事がらみの宴会は日本酒がもっぱらなので盃のやりとりは避けられず、宴会がいやになるとともに日本酒もいやになってしまった。 退職して十年、いまも日本酒嫌いは身に沁みて、これからも一生口にすることはないだろう。

そうして役所の周りにはいろんな手合がいて、クレーマーにしてバーを経営する御仁など、電話対応からはじまって瑕疵でもないのに手落ちだと強弁し、それをネタにしては、手打ちを自身の店でおこなうのであった。

一度その経営するバーに行ったときのこと、はじめは行かないつもりであったが、同行するという他の課の職員がやってきて、夜中に無言の電話がかかってきたりするぞなどと脅された。妻子に迷惑をかけてはならず、闘う家長はこれで厭戦に転んだ。

後日、当のよその課の職員は出先機関長を集めた会議で、クレーマーには毅然とした対応を!と鉄面皮に語っていた。ここからうかがうに、首相の息子と盃を酌み交わしていた総務省の幹部たちも会議の冒頭のあいさつなどでは、すべて職員は、公務員倫理を保持し、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、職務の遂行にあたっては全力を挙げてこれに専念しなければならない、などとおっしゃっておられるだろう。

以上、菅首相の息子と総務省の高級官僚との会食をめぐる報道から、わが身の不名誉なことを含めあれこれを思い出したしだいである。

行政と宴会についてまがりなりに観察してきたわたしとしては、利害関係者か否かは問わず、仕事に酒、料理をからめるのをやめよと声を大にして言いたい。