「紀元二千六百年の美貌はコリンヌ・リュシェールから!」〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ一)

一九三八年にフランスで製作されヒットした映画「格子なき牢獄」が日本で公開されたのは翌三九年十二月だった。この作品はわが国でもヒットし、主演の新人女優コリンヌ・リュシェールにたいする注目が社会現象となるほどの広がりをみせた。

詩人の堀口大學は「これは大した女優である」、評論家の河上徹太郎は「実に素晴らしく輝かしい」、画家の東郷青児は「又巴里が一つの新しい型を発見した」と絶讃した。

くわえて評論家の亀井勝一郎は「この一少女の容貌には長い文化の伝統のみがはじめてもたらし得る独自の美しさがある」「恐らく現代フランス女性の一番見事な典型」「私は映画における美貌といふことを改めて考へさせられた」とまでしるした。

明けて一九四0年(昭和十五年)は神武天皇即位紀元二六00年にあたっていて、下の写真にあるように「キネマ旬報」同年二月十一日号には「紀元二千六百年の美貌はコリンヌ・リュシェールから!」とのキャッチコピーがあり、紀元暦、奉祝行事とコリンヌ・リュシェールとのとりあわせはまさしく日本独自の熱狂を示していた。

鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』(文藝春秋、1980年)によると彼女のブロマイドの売り上げは十五万枚にのぼっており、これは「外国女優としては日本歴史始まって以来の記録」だった。

おなじく同書によると、この映画は全国二百二十六の映画館で上映され、その多くで四週間続映されており、当時の一本一週間という慣行からすると異例の措置がとられた。また開戦のあとも「望郷」「舞踏会の手帖」「巴里祭」などフランス映画の名作は細々ながら上映されていて「格子なき牢獄」もくり返し映画館にかけられていた。この時期のフランスは親ドイツのヴィシー政権だったからである。

あとで述べるように野坂昭如が敗戦直後にこの映画をみたのも再上映、再々上映の流れのなかでのことだったと考えられる。

なお、おなじ時期のブロマイド売り上げ二位は一九三七年に公開され、大ヒットした「オーケストラの少女」のディアナ・ダービン、三位はダニエル・ダリューで、河上徹太郎はこの三人を比較して、コリンヌの思春期の色気は、ディアナ・ダービンダニエル・ダリューのごとき濁ったものとは類が違うとまで述べていて、いくらなんでもふたりの女優には気の毒であった。

f:id:nmh470530:20200528145649j:image

 

 

三月ぶりの山手線

報道関係者と賭け麻雀をしていたとして東京高検の黒川弘務検事長が訓告処分を受けた。辞職願を提出しても受理せず、懲戒処分とし、そのあと退職させるだろうと思っていたので、訓告で済ませ退職願を受理したのには唖然とした。

公立高校に勤務していた身としては、賭け麻雀が発覚した教職員に訓告で済ますなど考えられず、懲戒処分は停職を超え免職もありうるだろう。それに賭け麻雀で逮捕や起訴された有名人の事案をいくつか知っているが、これらに照らすと検事長の処遇は法治国家の根幹に関わる問題である。おなじ賭け麻雀でも一般国民は逮捕や起訴され、上級国民は退職金の減額されない訓告、実質お咎めなしでは法の下の平等などあったものじゃない。

もはやわが国の上級国民は共産主義国家のエリート層、ノーメンクラトゥーラ、いわゆる「赤い貴族」状態に近く、安倍内閣がめざすのは市場経済全体主義の融合なのではないかとさえ考えられる。とすれば首相と習近平の立場、考え方はけっこう近い。

          □

「プラムビーチまでのドライブは楽しかった。エイジアはシドニー・ベシェの音楽が気にいったみたいだった。"彼のクラリネットはひとが話しているように聞こえるから"らしい」。ウォルター・モズリイ『流れは、いつか海へ』より。

現代のハードボイルド小説に登場したなつかしいジャズ・ミュージシャン、シドニー・ベシェ、彼が作曲し、自身で演奏した「小さな花」(プチ・フルール)を長年愛聴してきたわたしに、ちょっとびっくりの挿話が本書にあった。

「わたしはベシェがパリで別のミュージシャンと決闘した話をして聞かせた。理由はキーを間違えていると言われたから。ただそれだけのことだ。『ほんとに?それでどうなったの』『ふたりともジャズマンであって、ガンマンじゃない。弾丸は見物人に当たった。たしか女性だ』」。女性の軽傷を祈る。

なお、このエピソードを語った私立探偵の名前はジョン・キング・オリヴァー。キングは子供がバカにされるのを防ぐため、もしくは敬愛するジャズ・ミュージシャン、キング・オリヴァーにちなんで父親が名付けたという。

          □

吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』はシーボルトと楠本滝(遊女だったときの源氏名は其扇)とのあいだに生まれたイネの物語だが、けっこう彼女の誕生まえのシーボルト事件に筆を費やしていて事件の全体像が知れる。

そこで秦新二『文政十一年のスパイ合戦』を取り出し、たちまちのうちに再読した。こちらは事件の深層を探る出色の史書もしくは歴史推理の傑作で、著者は事件を表、裏、奥の三つの層で捉える。表の主役はシーボルトと高橋作左衛門景保(天文方・御書物奉行)、裏の主役は事件の発覚に関わる勘定奉行村垣淡路守定行、間宮林蔵最上徳内たち、そして奥では事件と密貿易が絡む暗闘が将軍家斉と岳父島津重豪のあいだでなされる。

素人に批評は難しいが史料の読み込みは確かだと思う。ただし「奥」の将軍家斉、島津重豪をめぐる確実な史料はなく、ここのところをどうみるかが史書と歴史推理を分かつポイントとなる。ぜひ歴史学者の意見を聞きたいものだ。

十一代将軍徳川家斉(1773~1841)の将軍在位は一七八七年から一八三七年にわたっていて、多くの妻妾に五十人の子供を産ませた人とばかり思っていたが本書によると、なかなかどうして御庭番を巧みに用いて各藩に睨みを効かし、諜報活動を積極的に展開した将軍だった。在位中の大事件としては一八0七年の永代橋崩落と一八二八年のシーボルト事件とがあった。

「永代とかけたる橋は落ちにけりきょうは祭礼あすは葬礼」(大田南畝)そこでわたしもお粗末な一首を。「安全の神話頼みの人の世か昔永代今は原発

          □

NHKBSで「飢餓海峡」をみて、木全公彦『スクリーンの裾をめくってみれば』にある「三國連太郎『台風』顛末記」の頁を開いたところ、なかにこんな挿話があった。

飢餓海峡」の北海道ロケは一九六四年十月十九日、犬飼多吉(三國連太郎)が弓坂刑事(伴淳三郎)に連行される連絡船の上から投身自殺する場面でクランクアップした。このシーンで、内田吐夢監督は三國に本当に船から飛び降りろと命じたという。もちろん三國は「殺す気か!」と抵抗した。

そこで思い出したのが「七人の侍」の豪雨のなかでの乱闘シーンで、撮影中、ふつうの状態の馬でも乗りこなせる俳優は少ないのに、豪雨、泥濘で馬は興奮しているから振り落とされたり蹴られたりして一歩まちがえると命にかかわる、なんとかしなければと助監督の堀川弘通は訴えたが黒澤監督はとりあわない、やむなく「死人が出てもいいんですか?」と口にすると黒澤は「ああ、しかたないね。必ず死ぬとは限らないんだから」と応じたエピソードで、これに通じる内田吐夢三國連太郎への指示だった。

飢餓海峡」「怪談」と時期をおなじくして三國は「台風」を企画、監督する、そのかんシナリオになかった女性の自慰シーンを付け加えたり、「飢餓海峡」のロケ地北海道に志村妙子(太地喜和子)が追っかけてきたりと公私ともに大波乱のなかにあった。

「台風」は紆余曲折の果てになんとか完成したものの配給を約束していた東映は当初の企画とは別物となり、くわえて作品の質が水準を満たすものではないとこれを断り、自主配給もできないままお蔵入りとなった。のちにフィルムはピンク映画のプロダクションに売り渡されたが木全氏もそこから先は辿れていない。

          □

ロバート・リテル『CIA』は米国の諜報機関の米ソ冷戦からプーチンが台頭するころにかけての活動を扱った大河スパイ小説で、読み終えるとともにおなじ時代をイスラエル諜報機関モサドはどのような活動をしていたのか知りたく、マイケル・バー・ゾウハー『モサド・ファイル』(ニシム・ミシャルとの共著)、『ミュンヘン』(アイタン・ハーバーとの共著)、『復讐者たち』に挑戦したが同名映画の原作『ミュンヘン』のほかはいずれも歯が立たなかった。基礎知識がないうえに中東、イスラエルの複雑な関係についてゆけず、整理できず、書かれている内容から具体像が浮かんでこない。もうひとつエフライム・ハレヴィ『イスラエル秘密外交: モサドを率いた男の告白 』に挑戦したがあえなく挫折した。

数冊を断念し、坂道を転げ落ちるように読書のスランプに陥った。ときどきあることで、本を読む意欲、気力がまったくなくなってしまう。読書限定のうつ病で、なんにもせず回復を待つほかなく、いまサービスで視聴させてもらっている東映チャンネルの「極道の妻たち」シリーズをぼんやりとみている。年齢からしてもうモサド関連の本を手にする機会はないだろう。エスピオナージュのファンとして一抹のさびしさはぬぐえない。

          □

緊急事態宣言が発せられてから毎日自宅で珈琲を淹れている。珈琲はほとんど喫茶店だったから自室での珈琲は新鮮な魅力、いま飲んでいるのは「モカ飲んでしぐれの舗道別れけり 」(丸山薫)のモカだ。

明治の世にドイツに留学した寺田寅彦は「珈琲哲学序説」に「つぶしきれない時間をカフェーやコンディトライの大理石のテーブルの前に過ごし、新聞でも見ながら『ミット』や『オーネ』のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった」とベルリンでの珈琲タイムを回想している。

パリに目を遣ると「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」と詠った詩人萩原朔太郎が「パリの喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮らしているなんてことは話に聞くだけでも贅沢至極のことである」(「喫茶店にて」)と心惹かれたパリのカフェについてしるしている。

珈琲、喫茶店は西洋への入口だった。寅彦と朔太郎のエッセイからは日本人と珈琲の夢の時代が偲ばれる。

一九一一年(明治四十四年)に帰国した寅彦は日曜によく銀座の風月へコーヒーを飲みに出かけた、というのも「当時ほかにコーヒーらしいコーヒーを飲ませてくれる家を知らなかった」からだった。

それから大正、昭和戦前、そして戦後、獅子文六が小説『可否道』(『コーヒーと恋愛』と改題してちくま文庫)を読売新聞に連載したのは一九六二年から翌年にかけてで、作者は日本人の珈琲鑑賞力はけっこう高く、お茶を飲む習慣と関係しているのだろうと述べている。このころには「コーヒーらしいコーヒー」はふつうに飲めるようになっていた。

          □

外出自粛の成果でカード会社からの請求額がずいぶん減った。マクロ経済の縮みがミクロの家計に及んだしだいで、いつまでも経済が萎縮するのは困ったものだが、世間は通常の生活に戻ってもわが家は自粛生活の努力を忘れてはならず、年金生活で節約に努めてきたつもりだがまだまだ努力不足だった、と書いてさっそく前言を翻すようだが、きょう(六月九日)はJR上野駅で山手線に乗り有楽町の家電量販店へ買い物に行った。JRも東京メトロも緊急事態宣言が発せられてからは利用しておらず、このまえJRを利用したのは三月だったからいささか緊張気味で、マスクをつけ、Suicaスマホにきちんとインストールされているか、そして残高とオートチャージを確かめ自宅を出た。

山手線に乗ると目的の大型店で瞬間検温をされるのだろうか、発熱の自覚はないけれど引っかかるとどうなるのだ、PCRの検査機関へ直行を命じられるのか、高齢者は重症化しやすいと聞くぞ、など心配ごとがあれこれ浮かぶ。

こうしてひきこもり状態にあった前期高齢者はようやく目的のお店に着き、発熱検査もなく入店できた。在職中は法律の定める最低限の健康診断しか受けたことはなく、退職してからは自覚症状がない限り病院には行かないので発熱の検査にも不安反応を起こしてしまう。ぶらりと買い物に立ち寄るのも難しい現在を体感したのだった。

          □

二十年ほど前の話。おなじ業界の人で顔見知りの方が五十前後で亡くなった。直接の死因は知らないがアルコール依存が関係していた。もう日本酒では酔えない、焼酎じゃないと効かないといっていたそうだ。

そのころわたしは日本酒は仕事のつきあい以外では飲まず、晩酌はもっぱらビールかウイスキーで焼酎を常飲するようになったら終わりだなと思った。四十代のはじめだったか、先輩に芋焼酎をごちそうになったが飲めたものじゃなく「おまえ、その歳で焼酎飲めないのか?」とあきれられたこともあった。

それがいまでは晩酌に焼酎が欠かせない。焼酎をいろいろ試しているうちにウィスキーの割合が低くなった。加齢とともにウィスキーが効きすぎるようになり、いっぽうで焼酎の多彩と魅力を知った。

種田山頭火の日記の随所に日本酒を飲みたいのにかねがないから焼酎しか飲めないと愚痴と嘆きがしるされている。「だいたい焼酎を私は好かない、好かないけれど酒の一杯では酒屋の前を通つた位にしかこたへない、だから詮方なしに焼酎といふことになる、酒は味へるけれど、焼酎は味へない、ただ酔を買ふのだ」(昭和九年六月二十八日)といった具合で、わたしが先輩に勧められた焼酎もこれに近いものだったか、こちらが飲み慣れていないだけだったのかはいまとなってはわからない。

いずれにせよ昔は飲めたものじゃなかった。換言すれば焼酎ほど長足の進歩を遂げた酒はないような気がする。

          □

読書限定のうつ病がようやく癒えて本に向かう気力が湧いてきた。昨年モンテーニュ『エセー』を読み終え、来年はフランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読もうと決めていたが、すでに六月になりゆっくりと構えてはいられない。そこで前段として『渡辺一夫著作集』の拾い読みをはじめた。

フランス・ルネサンス文学を代表する作家ラブレーの物語はSFふう壮大なほら話のなかに笑いと風刺を織りまぜた傑作大長篇として知られるが、SFとのおつきあいはほとんどなく、ほら話にたいする感度も良好とはいえないわたしに向いているとは思えないのに、手にしようとしているのは渡辺一夫がフランス文学者としてラブレーとその著作に心血をそそいだ、その一点に尽きる。

渡辺はギョーム・ポステルについて述べた「ある東洋学者の話」にラブレーモンテーニュの名をあげ、かれらユマニストは「埋没されていた人間性の発見と、人間性を歪めるものの指摘と、人間性を守るのに必要な覚悟の提示」をなしたと書いている。これはまた氏が生涯をかけて取り組んだテーマであり、わたしのラブレーへの関心はここからきている。

「平和になったからと言ってだらけ切り、自由になったから責任は忘れられ、民主主義とやらになったら、数と衆だけが羽振りをきかせ、権利が重んぜられると義務が棚上げにされ、自制を伴わぬ消費や、懐疑を知らぬ信念や、歴史を恐れない行動や、人間が自分の作った制度・組織・思想・智識・機械・薬品を使いこなせず逆にそれらに使われている例が、日毎に見られるように思う」

これは渡辺が、明治このかた、とりわけ敗戦後の世相を見ながら「老耄回顧」にしるした所感。寺田透が「荷風の中にある、明治日本の実利主義と立身出世願望に対する嫌悪と蔑視、それに裏打ちされた柔弱の衒いと不同調の精神は、かれを渡辺につなぐ見紛いようのない靭帯と言っていいだろう」(「渡辺さんと荷風『も』」)と荷風渡辺一夫とのつながりを指摘していて、うえの所感は荷風に通じている。

 

会わざるの記〜もうひとつの荷風追想

永井荷風が亡くなったのは一九五九年(昭和三十四年)四月三十日、その三周忌を期して霞ヶ関書房というところから『回想の永井荷風』という本が刊行されている。

種田政明を代表とする「荷風先生を偲ぶ会」による編纂で、書名、出版時期からし荷風と接した人たちによる回想が多いのはいうまでもないが荷風と会っていない人による荷風追想文、いわゆる「会わざるの記」も散見される。このことは荷風のばあい意外ではない。自宅を訪れた人に「いま先生は外出しています」といって追い返したといううわさばなしは荷風自身『断腸亭日乗』にしるしている。こうして巷間伝えられる人嫌い、孤高、姸介なその性格が会うのをためらわせたのだった。

画家の高畠達四郎は荷風に一度会ってみたいと思いながら、いやな顔をされるかもしれないし、うるさがられ、邪魔もの扱いされるのはまっぴらだと考えているうちにとうとう会う機会を失くしてしまったと書いている。

民社党衆議院議員だった吉川兼光は「むさぼり読んだ」というほど荷風に魅せられていて、ある日菅野に住む荷風宅をたずね「ごめんなさい」と声をかけたところ内からは声がなく、隣家から障子ごしに「先生はたったいま出かけたところですよ」との返事があり、たぶん八幡駅前のうどん屋にいるだろうとのこと、このとき吉川は荷風自身から「いまいない」といわれる目に遭わなかっただけよかった、ホッとしたと述べている。その後、もう一度たずねてみようと思いながら、そのたびに気おくれがして決心がにぶった、とも。

文芸評論家の野田宇太郎は意を決してひとりひそかに萱野の荷風邸のまえに立ったが、一気に玄関をあけられず、夕暮近く、もじもじしているうちに正面の戸ががらりと音を立てて開いたそのとき野田はとっさに身をひるがえしてうしろの電柱のかげに身を隠した。まったく他愛のない子供みたいな自分の行動だとわかっていても「相手が荷風さんといふと私はいまでも自分が子供のようになってしまふ」のだった。

荷風は小説に随筆に自身を巧みに語った作家である。ただしそれがどこまでが演出で、どこまでが生身の作者なのか、感じ方、見極めは読者によって異なる。それほどの巧みさで語っていて、読者ははたして自分の判断がどうなのか、生身の荷風に接して確かめてみたいと思いながら、いっぽうで裏切られるのを怖れもする。荷風という人と作品の魅力がもたらす不安が「会わざるの記」を生んだのである。

多田蔵人編『荷風追想』を読む

五十九篇の追懐文を収めた多田蔵人編『荷風追想』(岩波文庫)のなかからはじめに鴎外の息子森於兎が「永井荷風さんと父」に書きとめたエピソードを紹介してみよう。

於兎の祖母つまり鷗外の母が心安い上田敏に「永井さんはどんな人?」とたずねたところ「一番ハイカラな紳士と下町のいきな若旦那といっしょにしたような人です」との答が返ってきた。

上田敏による荷風の一筆書きポートレートを念頭に置いて小島政二郎「なつかしい顔」を読んでみるとそこに、一九0八年荷風がフランスから帰朝した当時の服装は大きな黒のボヘミヤンタイ、黒のコバートコート、黒のソフトのハイカラな姿、そして森鴎外上田敏の推輓で慶應義塾の教授職にあったころは和服姿で結城紬の縞物に無地の羽織、結城の袴、細みのキセルを用いていて清元や歌沢の稽古に通っていたとあり、小島は「そのうちに、麻布市兵衛町に木造の洋館を建てて住むようになってから、荷風はまた洋服に返って行った。今度はごく普通の、しゃれたところのちっともない背広を着ていた。もう五十近くになっていたのだから」と結んでいて、ハイカラと下町のいきな若旦那とをいっしょにしたような人が服装を通して語られている。

多数の文章を収めているからこんなふうに項目を立てて組み合わせてみるとさまざまな荷風の姿がみえてくる。

川端康成「遠く仰いで来た大詩人」には「(昭和三十四年)四月三十日のある夕刊に、荷風氏の死の部屋の乱雑貧陋の写真をながめていると、そのなかにうつぶせの死骸もあるのにやがて気づいて、私はぎょっとした」とある。

おなじく死骸をみた人に室生犀星がいて「有楽町の或る映画館のニュースで、荷風さんの仰臥された遺体を見て、眼は細く年より若く見えるその白いお顔を私は黯然とながめた。これが同業先輩の死顔かと、そして斯様なニュースに死顔を晒していることが激怒と悲哀とを混ぜて、私に迫った」と書いている。(「金ぴかの一日」)

荷風の死去に際し、川端康成は新聞で「うつぶせの死骸」を、室生犀星は映画館のニュースで「仰臥された遺体」をみている。どちらも事実とすれば、うつぶせになった遺体を仰向きにして写真を撮った、もしくは撮らせた人がいたわけだ。またテレビのニュースでは関根歌が「死の部屋の乱雑貧陋」のなかにチーズクラッカーが散らばっているのをみている。

その関根歌の「日蔭の女の五年間」は荷風の愛妾だった人ならではの回想記だ。荷風が麹町の芸者寿々龍こと関根歌を身請けしたのは一九二七年(昭和二年)、翌年麹町に待合「いく代」をもたせている。そのころの夜のひとときをお歌さんは語る。

「夜の時間を、先生は昔ばなしを私にきかせてくださるのでした。アメリカやフランスに行かれた時のこと、交渉のあった女のひとのおのろけ話で夜をふかしました。また芸者や女給さんたちの色っぽい噂話がたいへんお好きでした」

荷風はときにお歌さんに「お前の浮気話もきかせておくれよ」といってはあれこれ聞きたがったという。『断腸亭日乗』には、お歌さんと阿部定日本橋の芸者屋でいっしょにいたことがあるとしるされている。夜のつれづれにお定さんが荷風に語ったのだろう。

f:id:nmh470530:20200527150906j:image

森銑三「永井さんと私」に、なにかの折り『大菩薩峠』の話になって「単行本でお読みになったのですか」と聞くと「いいえ、私の行く家で、都新聞を取っていたものですから、それで読むことにしていました」と荷風は答えた。待合「いく代」を「私の行く家」というのが妙におかしい。

関根歌は荷風といちばん長くつきあいのあった女性で、戦後もときどき荷風宅を訪ねてい「麻布の谷の下あたりから聞こえてくるお琴の音をききながら、先生と一緒に歩いたことは、とくになつかしく思い出されます」としみじみと述べている。

終りに荷風と親しかったもうひとりの女性、阿部寿々子の「荷風先生はやさしい人だった」にふれておこう。

関根歌の回想が荷風のファンにはよく知られているのにたいし「荷風先生はやさしい人だった」はあまり知られていないのではないか。わたしは筆者、内容ともにはじめてでうれしい一文だった。

阿部寿々子はロック座、日劇小劇場、新宿フランス座で踊っていたと注記があるからストリッパーだったのだろう。生没年未詳。浅草では朝霧幾世を名乗っていた。おそらく他の劇場でも。

永井荷風先生に私がはじめてお目にかかったのは、日劇ダンシングチームの研究生をやめて、浅草ロック座の踊り子になったころですから、昭和二十三年のことです」。「荷風先生はやさしい人だった」の書き出しで、初出は『若い女性』一九五九年七月号。

彼女が荷風先生はどうして自分を可愛がってくれるだろうと思っていると、ある人が、別れた奥さん(藤蔭静枝)と似てるからよといったという。

昭和二十五年五月十一日の荷風日記。「晴。正午ロック座に至る。拙作『渡鳥』初日なればなり。(中略)終演後女優等とボンソワールに食事してかへる」。

「渡鳥」すなわち「渡り鳥いつ帰る」がロック座で上演されたとき朝霧幾世はここで踊っていた。おそらくボンソワールで食事したなかに彼女もいただろう。

昭和二十七年に荷風文化勲章を受章したとき幾世は新宿のフランス座で踊っていた。そしてもう一度ロック座へ戻ったが、昭和二十九年五月ごろ心臓を悪くした彼女は踊り子をやめた。

「先生、私、もうやめるのよ」

「そうかい、やめるのか」「このごろの浅草も、だんだんおもしろくなくなったなあ……」

舞台を引いた彼女に荷風は記念として四枚の色紙をあたえた。

最後に別れた晩、荷風は幾世を地下鉄でお茶の水駅まで送り「からだを大事にしろよ、さよなら」といってそのままホームを歩いていった。それから先ふたりの出会いはなかった。

朝霧幾世、荷風が関根歌にもたせていた待合は「いく代」、歌は芸者寿々龍を名乗っていて、朝霧幾世の本名は阿部寿々子、霊妙といいたくなる名前のご縁である。

 

 

 

麻生太郎氏における民度の研究

六月四日の参院財政金融委員会で麻生副総理兼財務大臣が日本の新型コロナウイルスによる死者数が欧米諸国より少ない理由を「国民の民度のレベルが違う」と述べたと報じられている。

札幌医科大の調査によると、四日時点の人口百万人当たりの死者数は、日本は七・一人。英国(五八五・二人)、フランス(四四四・六人)、米国(三二三・八人)より圧倒的に少ない。他方、アジアで比べると事情が異なり、韓国五・三人、中国三・二人、台湾とタイは一人未満にとどまっていて、アジアのなかでは日本の死者数は多く、その点は考慮されているかどうかはわからないが、この人にとって感染症による死者数は民度の問題だとすれば欧米諸国にたいしては鼻高々だろう。

民度については『新明解国語辞典』に「その地域に住んでいる人びとの経済力や文化の程度」との語釈がある。新型コロナウイルス禍のもとわが国でも失業者が増え、企業の倒産や飲食店の閉店が相次いでいる。ひょっとすると麻生氏は心の深層で失業者、倒産、閉店する企業、店舗は民度が低いと考えておられるのかもしれない。

五月二十五日、米国ミネアポリス近郊で、偽造紙幣を用いてたばこを購入しようとした疑いで警察に拘束されたジョージ・フロイド氏が拘束中警官に殺され、事件を機に全米各地さらには世界各地で人種差別と警察の暴行に抗議するデモが広まっている。忖度するに麻生氏の目にこの出来事も欧米諸国の民度の低さのあらわれと映っているかもしれない。容疑者の首を膝に敷いて窒息死させた警官の行為に、それとも黒人差別にたいする抗議行動のいずれに民度の低さをみているかはわからないけれど、この問題を考えるための補助線らしきものはある。

二0一八年一月に亡くなった野中広務自民党幹事長の評伝、魚住昭野中広務 差別と権力』(講談社)に「永田町ほど差別意識の強い世界はない。彼が政界の出世階段を上がるたびに、それを妬む者たちは陰で野中の出自を問題にした」というくだりがある。野中は京都府園部町被差別部落の出身であり「出自」とはこのことを指している。

関連して同書には、麻生太郎氏が二00一年の自民党総裁選をまえに所属する河野グループの会合で野中の名前を挙げながら「あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」と言い放ったとある。麻生事務所は誤解と弁明しているが、この発言を聞いたという同席した議員の証言もあり、しかも自民党総務会では野中自身がこの麻生発言を取り上げて、同席する麻生を論難したと著者は述べている。もちろんこの部落差別への視線は黒人差別にも向けられているだろう。

麻生太郎という政界の上層にある者のあからさまな差別発言、これに匹敵するのはわたしが知る限りでは戦前の平沼騏一郎の事例がある。

原田熊雄述『西園寺公と政局』一九三七年(昭和十二年)五月八日の記事に、陸軍が大島健一陸軍中将を枢密顧問官に推していたところ、枢密院議長平沼騏一郎が「大島は新平民だからいかん」と別の人物を就けたとある。原田熊雄の口述内容は当時の最高支配層による部落差別が活字として記録された貴重な記録であり、大島中将の処遇を知った寺内寿一前陸相の「ああいう者を長く枢密院議長の地位にしておくのはよくない」との言葉は平沼との個人的な確執は別にして、四民平等の観点から当然とはいいいながら、やはり救いに感じる。寺内寿一は東京高師附属中学校で同級の永井壮吉、のちの荷風に文弱軟派の生徒としていじめ鉄拳制裁をくわえていて、荷風のファンとしてはいやなやつだが、それとは別の一面がここにはある。

麻生発言になんら批判することなく許容する、それが氏の周囲の政治家たちの民度なのだろう。

 

永井良和『風俗営業取締り』再読

新型コロナ感染症の拡大をうけ五月一日から持続化給付金の申請受付がはじまった。感染症禍のもと営業自粛等で特に大きな影響を受けている中小企業、小規模事業者、フリーランスを含む個人事業者等にたいして事業の継続を支え、再起の糧とするための給付である。

これに先立ち政府は性風俗関連特殊営業の事業者(ソープランド、キャバクラ、出会い系喫茶、ストリップ劇場など)が、新型コロナ対策の持続化給付金の対象から外されると発表したが、納税はしているのにどうして給付の対象にはならないのか、性風俗店で働く人々の困窮はどうするのかといった批判を受け、性風俗業界で個人事業主として働く人も支給対象になるとの見解を明らかにした。

また住民基本台帳に記載されている各個人に十万円を給付する特別定額給付金ははじめ困窮の著しい家庭に三十万円給付する方向で議論されていて、ここでも性風俗業界で働く人たちを給付の対象とするかどうかが問題となっていた。

ちなみに二0二0年現在、性風俗関連特殊営業は全国で三万件以上の届出がなされており、およそ三十六万人の女性が働いている。

法律で風俗業の存在を認め、取るべきもの(税金)はしっかり取りながら、公的支援の対象とするにはふさわしくない、公的支援の対象にはしたくないというのが行政の姿勢であり、給付金をめぐる議論には闇の仕事は明るい表通りには出て来させてはならないといった空気がみてとれる。

もとよりいまにはじまったことではない。そこで政治と風俗営業をめぐる歴史を復習しておきたく、以前に読んだ永井良和風俗営業取締り』(二00二年講談社選書メチエ)を再読した。

本書は江戸時代の風俗営業規制が明治以降どんなふうに受け継がれ、また変容してきたかを概観し、現在の風俗営業をめぐる問題を考える視点を提示する。

江戸幕府遊郭を公認したのは一六一七年(元和三年)だった。江戸ではそれまで分散していた傾城屋と遊女が吉原に集められた。そのころの吉原は日本橋地区にあったが、やがて周辺地域の市街化が進んだため一六五六年(明暦二年)に新吉原へ移転となった。これがいまの吉原である。

場所は変わっても一定の場所、空間に限って風俗営業を認める方針(集娼)に変わりはなく、公許以外の地区での私娼の増加(散娼)には手を焼いたが、これも一定の場所に集める方針、つまり集娼の考え方で規制した。公認した場所以外の私娼屋が集まった地区は岡場所と呼ばれた。「岡」は「傍目八目」の「傍」(おか)などとおなじく「脇」「外」を表す言葉である。

こうして公娼、私娼いずれも一定の場所に集めて囲い込み、可視化しないよう風俗営業を取り締まった。これはまた犯罪取締りにも都合がよかった。

集娼という悪場所の囲い込み政策は明治維新後も受け継がれた。女性は「くろうと」と「しろうと」に分けられ、前者は悪所に集められる。女性が分類されたように社会空間も悪所とそうでないところに分けられ、悪所への出入りは大人の男に限られた。

規制する側はこの基本政策を踏襲しようとするが、これだと新規参入がむつかしく、そのため新手の営業がつぎからつぎへと発生する。江戸の吉原と岡場所との関係の延長戦で、戦前では官許の悪所にたいする代表格が待合やカフェーだった。

日本国憲法の成立とともにそれまでの取締り法令も見直されたが、売買春にかぎっていえば、一九五六年(昭和三十一年)の売春防止法施行までは特定地域(特飲街、赤線、青線)での「自由意志」による売買春は黙認されていたから基本的な構造は変わっていない。

売防法以後はトルコ風呂(いまのソープランド)という新しい業態で多くの特定地域は生き残りを図ったが時間の経過とともにこの地域の比重はどんどん下がってゆき、ここを監視、規制するだけでは取締りは追いつかない事態を迎える。そのはじまりはモーテルで、都市の一区画だけを囲い込む方式では対応できず、著者がいうように「高度経済成長のなかで、社会悪の空間的隔離という方式は限界を呈しはじめた」のであった。

青少年の健全育成のため、幸福な家庭を守るため、囲い込み政策は現在もつづく。しかし、携帯電話、インターネットなど情報通信技術の発達は隔離をほとんど無意味としている。女性の派遣だけで「店舗」はなくてもよく、「出会い」の企画は子ども部屋でもできる。こうして取締りはすべての「出会い」の検閲に行き着く危険性を孕むと著者は指摘する。       

この指摘から二十年近く経ったいま、新型コロナウイルスと給付金という思いもかけない事態が性風俗業界を明るみに出した。可視化を避けようとしても性風俗業界で個人事業主として働く人と給付金とを断つには無理があった。

ただし個人事業主が給付金を受けるにはみずから明るみに出て申請しなければならず、そのことは永井氏のいう「すべての『出会い』の検閲に行き着く危険性」をより高める一面を有していると思われる。

小池東京都知事は六月三日の記者会見で、東京都内で接待を伴う飲食店に関わる人の感染が増えている、課題は病院の院内感染と夜の繁華街の対策だとしたうえで「以前も、都の職員をはじめとする担当者が練り歩きをした。注意喚起も改めてやっていきたい。感染しない、感染させないためにも、夜の街への外出を控えていただき、細心の注意を払っていただきたい」と語った。社会悪の空間的隔離を図っても感染症に区別はなく、それどころか江戸時代からずっと囲い込まれてきた地域、接待を伴う店の集まる「夜の街」と新型コロナウイルスとの「密」が難しい問題をもたらしている。

芳醇な味わいの芋焼酎

どこかの局の報道番組で、現時点で感染症対策が効果をあげている台湾と韓国を取り上げていた。素人の印象だが、両国とも対策にしっかりとした哲学があると思った。台湾の徹底した情報公開にもとづく社会運行(入国管理、ITによるマスクの供給など)、韓国のあくなき検査、検査、検査、それにたいし日本はとくに初動で哲学がなかった気がする。

いま日本の感染症対策の核は三密の回避にあり、ようやく哲学がみえてきた。これに台湾の徹底した情報公開にもとづく社会運行、韓国の検査の徹底に学んで、組み合わせるとよいのにと門外漢は思う。ただ、台湾の感染症対策の責任者は毎日、記者の質問の手が上がらなくなるまで情報の開示と説明に努めていて安倍内閣では無理だろう。

感染症対策の基本方針を選択する、その最終責任は政権が担わなければならない。韓国のように徹底した検査を実施するか、日本のように対象を絞るのか、いずれにせよ選択すれば責任が生ずる。そのことを「最悪の事態になった場合、私が責任を取ればいいというものではない」という首相はどれほど認識しているのだろう。

            □

黒川創「泣く男」(『いつか、この世界で起こっていたこと』所収)は一九七七年に高校二年生だった男がアメリカを旅したときの体験を振り返る体裁をとった、アメリカ社会の断面、原爆と風船爆弾と日米関係、男がアメリカ滞在中に歿したエルビス・プレスリーのことなど意表をつく話題の詰まった、考えさせられる短篇小説だ。

アリゾナにあるナボホ族の居留地ではウラン鉱が採れたために第二次世界大戦以来採掘の仕事がありネイティヴアメリカンは安い賃金で従事した。やがて体を壊してしまう人が増えた。放射能のせいなのではと推し量っても何も教えてくれないからなかなかわからない。

そのウランは原爆に用いられた。原子爆弾の始点ではナボホ族が放射能でやられ、その終点が広島と長崎だった。

いっぽう戦争末期の日本では、風船爆弾による反撃が考案され、一万発近くが飛ばされ少なくとも数百発が米国に届いた。一九四五年春ピクニックをしていた家族がこれに触れ、爆発が起こり母子六人が亡くなった。日本軍の攻撃でアメリカ本土でも死者がでていたのだった。

また北茨城の浜辺から放たれた風船爆弾が一九四五年三月十日ハンフォードの核施設にたどり着き、送電線に引っかかって断線したために原子炉三基がしばらく止まり、原爆の完成が数日か数時間遅れたという話もある。

風船爆弾は和紙と蒟蒻糊を材料に、直径十メートルの大風船に水素ガスを詰め、十五キロの爆弾一個、五キロの焼夷弾二個を抱えて空高く浮上し、偏西風に乗って海をまたぎ、アメリカ本土のどこかへ落下する、というもので、米国の確認で三百六十一発、日本側の推測で千発近くが届いている。竹槍の訓練や風船爆弾は追い詰められての破れかぶれくらいにしか思っていなかったが、後者はわずかながら効果があったわけで、特攻という前途有為の若者を自爆攻撃に使ったバカよりはるかに立派ではないか。

            □

第二次世界大戦で、サイパン島が玉砕し、戦局が絶望的になったのをうけて生まれたのが戦闘機に爆弾を抱かせ敵空母に体当りする、すなわち特攻だった。

散華した若者たちの心情を思い、これを企画、実行した中心人物である大西瀧二郎中将をわたしは人非人として、憎みても余りある人物としてきた。すなわち「特攻という前途有為の若者を自爆攻撃に使ったバカ」である。

ところが先日読んだ半藤一利『昭和史』には、特攻は大西瀧二郎の発案で、まさに下から彭湃として起こってくる、止むに止まれぬ勢いから最後の断を下したのだと伝わるが、軍部は敗戦直後に切腹し、死人に口なしの大西に特攻の全責任を負わせたと傍証を添えて書かれてあった。長年、大西を人非人としてきたわたしには衝撃だった。

陸軍が歩けて銃が撃てればよいのにたいし、海軍は船の機械を操作したり、天気図を読んだりしなければならないからなんとなく偏差値が高いイメージがある。阿川弘之山本五十六』『米内光政』『井上成美』を読むと見識も高そうだ。しかし巨視的にみれば海軍のほうが優れていたわけではないし、それに大西瀧二郎の扱いをみるにけっこう陰険である。

           □

新型コロナ感染症禍のなか新学期を九月にはじめる案が浮上していることについて安倍首相は国会答弁で「大きな変化がある中において、前広(まえびろ)にさまざまな選択肢を検討していきたい」と述べた。前広ははじめて知る言葉で、あらかじめ、 前もって、時間の余裕を持って検討するという意味だ。

安倍首相に教えていただいたというべきだろうが、首相は森ゆうこ議員の質問に、官僚のつくった答弁原稿を持ち上げ、示しながら「事前通告されてない!」「ここに記載されてない!」といっていたから、正確には答弁を作成した職員に教えていただいたというべきかもしれない。官庁以外ではあまり使われない言葉ではないかな。

            □

山頭火の日記を読んでいる。この人にも戦時俳句といってよい、いくつかの句があった。「遺骨を抱いて帰郷する父親」という前書に「ぽろぽろしたたる汗がましろな函に」。

えっと思ったのは「函」を「菌」とみたから。「若いという字は苦しい字に似てるわ」というむかしの歌の歌詞を思い出して苦笑しました。俳句の鑑賞にも感染症禍が及んでいる。

おなじく山頭火の戦時俳句。「戦傷兵士」の前書と「足は手は支那に残してふたたび日本に」の句。生前公表したかどうかはわからないが公表したとすればずいぶん勇気を要しただろう。プロレタリア川柳作家で治安維持法により逮捕され、病死とは名目ばかりで実質的には虐殺された鶴彬の「手と足をもいだ丸太にしてかへし」を思った。

「街はおまつりお骨となつて帰られたか」「みんな出て征く山の青さいよいよ青く」「日ざかりの千人針の一針づつ」「しぐれつつしづかにも六百五十柱」。

はじめて読む山頭火。わたしは、漂泊と放浪の俳人としてのみ知る人だったが、旅するうちに時代相をしっかりみつめていたのはこれらの句がよく示している。

            □

吉村昭のエッセイ集『縁起のいい客』によると、日本人ではじめてアイスクリームを口にしたのは万延元年(一八六0年)にアメリカに派遣された人々で、その記録に「味は至つて甘く、口中に入るに忽ち解けて、誠に美味なり。是をアイスクリンといふ」とあるそうだ。

やがて製法は日本に伝えられたがまだまだ珍しいものだった。そうしたなか明治六年、北海道に行幸した明治天皇にアイスクリームを差し上げたという記事が報知新聞の記事になっている。

ところであんぱんの日というのがあり、明治八年の四月四日、天皇に仕えていた山岡鉄舟が木村屋のあんぱんを明治天皇に献上したことに由来している。だったらアイスクリームの日があってよいのでは、と思い調べてみたら、なんと五月九日がその日だった。

ただしこちらは明治天皇は関係なく、東京アイスクリーム協会(日本アイスクリーム協会の前身)がアイスクリームの消費拡大を願い東京オリンピックをひかえた昭和三十九年(一九六四年)の五月九日に記念事業を開催し、あわせて諸施設へアイスクリームのプレゼントをしたところから発している。

            □

先日読んだロバート・リテル『CIA ザ・カンパニー』のなかでCIAのエージェントのひとりが「問題は構造的だー上に伝えられる情報は、彼らの誤った認識を修正するものではなく、むしろそれを補強するものでしかない」と語っていた。アメリカ合衆国が対外介入にあたってしばしば国際情勢の分析を誤ったことについての作者の思いだろう。

そこで「下々はマスクが手に入らないなんて騒いでいます」「だったらマスクを配布しましょう」「首相肝いりのマスクですからみんな喜びますよ」といったやりとりを想像した。こうして問題は構造的である。

ちなみにマスクの入手困難を改善するには、数百円出せば買えるマスクの配布よりも、たとえば台湾が行なっているようなマスク供給のシステムを構築することが大事だったはずで、個人、民間ではできない、できにくい事業にあの予算を振り向けていたら、と悔やまれる。

そのアベノマスクが届いたのですぐ開けようとしたが、けっこう手持ちのマスクはあるからと自制し、子供からはマスクが切れたときの予備にしておけばよいからとメールがあった。

「下さる物なら赤葉でも」ということわざがある。使い道のない大根の赤葉でもタダならガッポリいただきましょう、くれるというなら大根の枯れ葉でも頂戴しましょう、老爺のお貰い精神は健在で、予算はもっと有効な使い途があるだろうにと溜息をつきながらマスクをいただいた。ただし大根の赤葉は下さる方からのお裾分け、マスクは公金による配布もしくはバラマキである。首相はお貰い精神の発達した国民へのお裾分けと考えているかもしれないけれど。

それに大根の赤葉でもいったん頂戴するとかえって高くつくこともある。「只より高い物はない」。困ったことに配布されたマスクのなかには異物による汚染や不良品も混ざっていて多額の公金をかけたうえ余計にむだな費用がかかるのはいただけない。おまけに担当企業の選定に疑惑があるのであれば「アベノマスクより高い物はない」となる。

          □

五月十四日政府は新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言について対策本部を開き、東京や大阪など八つの都道府県を除く、三十九県で解除することを決定した。わが生活する東京はお預けになり残念ではあるが、この日も新たに三十人の感染者が出ているからやむをえないことではある。

緊急事態宣言の解除を願いながら、解除になったときの生活のありようについてあれこれ考えている。本を読むのは喫茶店で、テレビの前に坐るよりも映画館のほうが好きな自分が、外出自粛でやむなく自室で読書し、テレビドラマを視聴しているうちに、これもいいなと思うようになった。もともと適応力はあるほうだ。

灯火したしむべし、自粛もしたしむべし、であればステイホームの充実を図ってみようと、海外ドラマの専門チャンネルの視聴契約をした。

午後のひととき自分で淹れた珈琲を飲みながら好きな音楽を聴いたり、海外ドラマをみていて、緊急事態宣言が解除されても当面はこのライフスタイルを続けることになりそうだ。

          □

雇用調整助成金、特別定額給付金などの施策はスタートしたがいつ手許にお金が届くのか不明、スピード感がないという不満は大きい。とりあえず高い目線で「どうれ」と返事はするが、さてとおみこしをあげるまでゆっくり時間をとる「その万国共通の親玉が、いわゆるお役所仕事である」。(京極純一『文明の作法』)

『文明の作法』は昭和四十五年(一九七0年)に刊行されていて、この半世紀、お役所仕事の作風にさほど変化はないようで「どうれと言うは長い文字~待てど暮らせどお役所仕事」である。ただし京極先生は万国共通というが、今回のドイツの支援金対応はずいぶん早いと聞いた。

施策の遅れの原因のひとつにIT化の遅れがある。マイナンバーカードを用いたオンライン申請より書類を郵送するほうが早く給付金が届くなんていわれていて、日本の官庁はIT化の掛け声はあげるもののみずからの職場のIT化は「待てど暮らせどお役所仕事」のようだ。

          □

うまい酒をうまく飲みたい。どこで?が問題だが外出自粛のいまは家飲みのほかなく、オンライン飲み会というのが流行だそうだが無職渡世には無縁であり、それをする情報リテラシーもない。自宅での独酌酔中自楽にひたっている。

寝て起きて、ジョギングして、ご飯を食べて、本を読んだり映画やドラマをみたり、夕刻散歩して一日が暮れ、そうして食事、晩酌そのほか、老爺の自粛生活よろこぶべし。「人はよき時代を懐かしむことはできる。しかし現代を逃れることはできない」(モンテーニュ)。現代を逃れないために自粛生活してる。

近ごろくすりと笑ったり、感心したことがら。ジェイムズ・ジョイスは一九一九年以降、自身の作品にセミコロンを使ったかどうかを大問題とした研究者がいたんだとか。昔の新聞記事のリードに「美人の首なし死体発見」というのがあったそうだ。山頭火日記に「一杯やりたい夕焼空」という句をみつけた。

          □

五月二十五日。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言について、継続している北海道、埼玉、千葉、東京、神奈川の五都道県の解除が決定した。四月七日からだからおよそ一月半の自粛生活だった。少なくともしばらくは医療、経済ともに緊張した状態が続くが、ともあれ解除はよい方向への一段階で晩酌の浮き浮きの度合はちょっぴり高まった。

ネットに芋焼酎へ蜂蜜を少し垂らすのはよい、とあるのをみてマルタ島で買った蜂蜜を垂らしてみた。すると芳醇な味わいの芋焼酎になった気がした。

マルタ共和国を旅したのは昨年の暮れだから、この数カ月で世界は激変した。飲みながら六十代はずいぶん旅したけれど、今年からの七十代、海外旅行をすることはあるだろうかと先行きを思った。

このかんの自粛生活で焼酎とウィスキーへの愛しさはつのり、晩酌のたのしみは増した。そして人生最後のたのしみは酒食にあると実感した。いま読んでいる山頭火の日記に「食べることが生きることになる、といふ事実は、老境にあつては真実でないとはいへまい」とあり、ならば食と酒を楽しむ老境でありたい。